境内に幼稚園が併設されている正業寺。「せいごうじ」といいます。「しょうごんじ」って書かれている資料もあります。
境内に幼稚園児が遊んでいたりするので、とっても入りづらい寺院です。どうしてこんな世の中になってしまったのやら・・・
山号は御霊山、院号は万蔵院といいます。宗派は浄土宗で、鎌倉光明寺末寺です。本尊は阿弥陀三尊です。
■ 由緒
1566年(永禄9年)に没したと伝える僧侶の元清が創建したと伝えられています。
その後、何度か紆余曲折があって荒廃し、1698年(元禄11年)に砂村新左衛門の甥が現在地に移しました。
境内には内川新田の開発に尽力した砂村新左衛門政次と妻の墓があります。毎年12月、内川新田開拓の業績をたたえて「砂村新左衛門祭」が行われます。
1846年(弘化3年)に書かれた『村規定御請書』があります。砂村新左衛門の子孫の新三郎や新四郎などが寄進した棟札などもあります。
■ 写真
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参道(2019年5月29日撮影)
散策しながら辿り着いた正業寺。ここって入りづらいんだよなぁ~(^^;)
悪いことなんて何もしてないんだけど、保育園児たちが境内で遊んでいるので・・・。堂々と入ればいいんだけど、何もしてなくても男性って怪しまれてしまう社会になってしまったからさ。疑わしきは罰する社会になっちゃったんだよね。
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本堂(2019年5月29日撮影)
境内では子供たちが元気に遊んでいました。
私は子供たちが見えないかのようにスルーして史跡巡り。もし血だらけの子供が倒れていても、私には見えないと思います(^^;)
だって、犯人扱いされたりして疑われたくないもん。
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本堂(2019年5月29日撮影)
本堂の周りは芝生になっています。子供たちが転んでも怪我しないように配慮してあるのかなーなんて思いました。
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扁額(2019年5月29日撮影)
御霊山って扁額がありました。
近くに霊山があったとは思えない地形ではありますが・・・。このあたり、海沿いで砂が堆積して陸化したような場所だから。
長い歴史の中で記録には残っていなくても移動してたりするのかもね。
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観音菩薩(2019年5月29日撮影)
昔からこの世は憂き世とか苦の世界といい、釈迦も人間には四苦八苦があると説いています。この苦の世界に住む我々は、どうすれば平和や幸福を手にすることができるのか。
仏は常に我々の目の前に存在し慈悲を施していますが、悲しいことに我々は眼前の仏を見ることができません。せっかくの恵みに気が付けずにいます。なぜなら、人の心は私欲に満ちており、素直ではないためです。
私たちは一人では生きていくことができません。自分たちの上に他からの力が働いており、思わず躓くこともあれば、救われることもあります。心が濁っていて悪いことばかり考えている人には自然と悪い力が働き、心を清くしている人には自然と良い力が授けられます。
観音はそのような良い力として私たちの願う心の声を聞きつけ、救いを与え、力を貸してくれる仏様です。
と、こんな感じのことが石板に書かれてありました。
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墓石(2019年5月29日撮影)
墓地に並ぶ墓石。無縁でしょうか。けど、とても立派な墓石たちです。
地元の名士たちのお墓だったりするのかな。女性のお墓もあるみたいです。
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石仏(2006年3月7日撮影)
境内に建ち並んでいる石仏たちです。結構な数がありますよ。
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地蔵(2019年5月29日撮影)
十二地蔵です。六地蔵ではありません(^^;)
新しい時代を先取りした十二地蔵ですね。六地蔵の2倍です。そのうち十八地蔵が出てくるかな?五十六地蔵とか・・・
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地蔵(2019年5月29日撮影)
鎌倉市長谷にある長谷寺の地蔵に良く似ていますね。あのお地蔵様は長谷寺の写真撮影スポットになってますからね。
正業寺だって負けてないでしょ?
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地蔵(2019年5月29日撮影)
水子地蔵です。赤ん坊のような顔をしていますね。
周囲になにもなくて、ちょっと殺風景ではありますが(^^;)
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アヒル(2019年5月29日撮影)
和順保育園が併設されているため、境内には遊具が設置されています。
つい童心に帰って遊んでしまった・・・
とはいきませんよ、さすがに遊具で遊んだりはしません(^^;)
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土器片(2019年5月29日撮影)
たぶん土器片。
たぶん古墳時代のもの。
どこにあったのかというと、実は正業寺ではなかったりします。正業寺の近くで遺跡のあった場所。真剣に探すと見付けられることもあります。もちろん元に戻しておきました。
専門家が見ると、こんな小さな破片からでも、どんな土器なのかわかっちゃうようです。
完全に私事なんですが、今回記事から画像の長辺を640ピクセルに変更することにしました。
今まで800ピクセルにしていたんですが、このままのペースで使い続けるとサーバーのデーターベース容量が心配で・・・(^^;)
■ 文化財
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阿弥陀如来坐像(2019年5月29日撮影)
横須賀市の重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来坐像です。本堂須弥壇上に安置されています。
法衣を偏祖右肩に着て、右手は胸前で曲げて掌を上にし、左手は膝上に掌を仰ぎ、ともに第一指・第二指を稔じて上品下生の来迎印を結び、蓮台上に右脚を上にして結跏趺座しています。
寄木造りで玉眼入り、漆箔で肉髷珠および白毫に水晶をはめ込んであり、像高は52.2cm、総体に良く保存されています。
現在、像内銘などの確認ができないため、作者はもちろん、造立時期についての資料はありませんが、その洗練された強い作風から、藤原様式を受け継いだ鎌倉時代の作品と推定されています。
東国地方では類例の少ない違例であり、彫刻史上でも資料的価値の高い作品です。
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砂村新左エ門の墓(2019年5月29日撮影)
安山岩製の尖頭方柱形の墓で、花立及び小盤を上面に彫り付けた台石上に立てられています。
正面に「法名真悦 不納位 法名妙忍 禅定尼」と、右側面に「寛文七年未十二月十五日」と新左衛門の没年と、左側面に「萬治三季子七月廿七日」と妻女の没年が刻まれています。
砂村新左衛門は越前国砂畑(福井県鯖江市)の出身といわれ(越前藩『御家御代々記』)、横浜の野毛新田(後の吉田新田)の開発に関係し、その経験をもって内川新田の開発(完成当初高360石余、のち585石余)を行いました。後に江戸宝六島(東京都江東区砂町)も開発しました。
砂村新左衛門は横須賀市内最大の新田工事である内川新田を、1660年(万治3年)から1667年(寛文7年)までの8年を費やして完成させました。久里浜の夫婦橋にある内川新田開発記念碑には、新田開発にあたり水門がしばしばこわれ、8年の苦労と神仏の加護により、ようやく完成したと刻まれています。この記念碑は、1968年(昭和43年)5月に横須賀市指定史跡となりました。
毎年12月に久里浜観光協会により砂村新左衛門祭りが催され、記念碑前で式典、墓前で法要が行われています。
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砂村新左エ門の墓(2019年5月29日撮影)
それっぽいお墓が2基ありますが、案内板の真正面にあるのが砂村新左衛門の墓になります。ほかの墓石は砂村家の墓になります。
雨上がりだったため、綺麗な水が溜まっていました。
もっと詳しいことが知りたい人は砂村新左衛門の研究をされている方に聞いてみてください。たまに講演活動をやってくれたりもしています。
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