裏手には横須賀市内でも大規模な久里浜幼稚園があります。
京急に乗っていると久里浜~YRP野比の間に見える大きな屋根の寺院です。
山号は亀養山です。亀養山、松樹院、長安寺と言います。、宗派は浄土宗、鎌倉光明寺末寺です。
本尊は阿弥陀三尊、開基は十九世僧然誉薫阿禅芳、開山は法連社龍誉、1533年(天文2年)の創建と伝えられています。現在の本堂は関東大震災で倒壊したため、1929年(昭和4年)に再建したものです。
境内右側にある不動堂は、もともと久村の丸山にあったもので、水害があり丸山が崩れお堂が倒壊したため、ここに造られました。
不動堂の本尊には横須賀市指定文化財の木造不動三尊像が安置されています。
中尊の不動明王坐像は、久村で「丸山の不動」として親しまれていましたが、寛永年間(1624年~1644年)の災害によって長安寺に移され、「長安寺の不動」と呼ばれるようになりました。
像高は65.6cmあり、ヒノキ材の割矧ぎ造り(わりはぎづくり)で、玉眼が嵌入されています。胎内の墨書銘から1351年(観応2年)、仏師運朝によって造られたとあります。また、1520年(永正17年)、1658年(万治元年)に修理が施されています。
力強く精彩のある顔を始め、全体的に均整が取れ、量感があり、まとまりの良い造形となっています。南北朝時代の仏像彫刻として、造立年月日、作者ともに明確なので、鎌倉地方文化圏の中世彫刻史上で貴重な存在と言えます。
脇侍の二童子像は寄木造りで、玉眼入り、作風から江戸時代に造立されたものと考えられます。
またこのお寺は、十夜法要の六字詰念仏(ろくじづめねんぶつ)が知られています。
毎年、十夜になると信者が集まり、太鼓や双盤(そうばん)と呼ばれるカネを鳴らして賑やかに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるます。
長安寺の入り口は大きくて目立ちますね。
このすぐ近くまでJR横須賀線の引き込み線があります。京急だと電車の中から見えるお寺です。
このあたり一帯の地質は砂のようですね。久里浜は地盤が緩そうな印象があります。
立派な山門の写真です。自分としてはなかなか良い写真が撮れました。
こちらのお寺には縁起が書かれた案内板はありませんでした。あったのは横須賀市の重要文化財に指定されている不動明王像でした。不動堂のところに立てられています。
山号が亀養山というだけあって、亀の手水鉢。
正確には鉢ではないか・・・、蛇口っていうのかな?だけど、ヘビじゃなくてカメだし。亀口で合ってる?
数年前に訪れたころに比べると、吐き出す水の勢いが弱くなっているような気がしました。
大きな本堂、電車から見えるので印象的ですね。この本堂ってやっぱり鉄骨造なのかな?
とりあえずお参りを済ませてから境内を探検します。
イチョウの木も大きかったです。ギンナンが取れるのかな?
本堂の写真です。
自分なりに綺麗に見えるように色々と工夫をして撮影をしています。だいたい同じような写真ばかりになっちゃうんだけど(^^;)
長安寺と書かれた扁額。「安」の字が「あ」にも見えますね。
境内は広いし、本堂は大きくて立派だけど、扁額はわりと地味です。古いものなのかもしれないですね。
本堂脇に設置されている新しめの石仏たち。仏像の種類は詳しくないので良くわからないです。野草の名前なら詳しいんだけどね(^^;)
扉があったので、たぶん納骨堂になっているんじゃないかなと思います。
仏像が彫られたレリーフもありました。インドっぽかったので写真を撮ってみた。
やっぱりこうして環境を整えると、死者は安らかに眠れるのかな。自分だったらどんな環境が一番落ち着くのだろうかって、ちょっと考えさせられました。
なにかと不安や恐怖の強い性格なので、社会生活も難しくてさ。落ち着ける環境って少なくてさ。
小さいけれどこちらが不動堂です。この中に不動明王像が安置されています。
すぐ近くに横須賀市によって立てられた案内板があります。
横須賀市の文化財にしていされている不動明王像です。公開はされていないです。
あまり聞きなれない言葉かもしれませんが、割矧ぎ造りっていいます。1本の木から造り出しますが、途中で割って胎内をくりぬいて、もう一度接合して作ります。軽量化を図ったり、ひび割れを防ぐ工法なのかな?
ウニやヒトデの化石だと思って興奮してしまいましたが、良く見てみたら岩を彫刻したものだったみたい。
ちょっとがっかりしちゃいました。
立派な鐘楼です。
訪れた記念にひと突きしたい気分なんですが、勝手なことをやると怒られると思うのでやらないです。
けど、いつもひと突きしたいなーって思ってしまいます。あと、井戸のポンプを見ると動かしたいって思ってしまいます。自販機の釣り銭ボックスには指を入れたいって・・・
関東大震災の供養塔です。
供養塔出資者メンバーの人たちも、もう存命ではないのかもしれないですね。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で亡くなった8人の供養塔です。
1939年(昭和14年)の十七回忌の命日に建立されました。
忠魂碑です、たぶん日露戦争のだと思います。
陸軍大将鈴木荘六の字です。達筆だった軍人のようで、忠魂碑や神社・寺院の扁額を書いたりしています。
新潟県の出身で、日清戦争、日露戦争、シベリアなどに従軍しています。
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