かつての浦賀道だったり、里山の雑木林の面影が良く残っている場所、御林(おはやし)。近年ではこうした場所はめっきり少なくなってしまいました。
何もない場所のようにも思えますが、現代では貴重な存在となっています。
Googleマップでは「幕府御用林跡」になっています。
アクセスは不便な場所にあります。電車でもバスでも不便な場所で、車でも駐車場がないので行きづらい場所になります。
京急久里浜駅から徒歩30分くらい。京急浦賀駅からでも徒歩30分くらい。京急バスならバス停「吉井」から徒歩15分くらいかな。
Googleマップでは「幕府御用林跡」になっています。
御林の歴史
案内看板より
御林
高坂小学校奥から真福寺への山林を御林といい、浦賀奉行所が管理した幕府の御用林でした。
椎(シイ)の樹林帯が陽光をさえぎり、江戸と浦賀を結ぶ往時の浦賀道の面影をよく残している所です。
江戸城が火災で焼失した時、この御林からも大木が切り出されたと伝えられています。
峠の辺りを「かんのんやま」といい、高坂側の坂道は「六部坂」と呼ばれています。
真福寺側の坂道には、青面金剛と刻まれた三基の庚申塔があります。
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ
御林の写真
御林の小径と木々
御林の吉井側になります。浦賀側は交通の便が悪くて行ったことがありません。吉井から通り抜ければいいんだけど、帰るのが大変になっちゃうし。
私が踏破したのは御林の半分くらいですかね~。
御林って、行ったことのない人はどんなイメージを持つのかな?
私は江戸城再建に使われた木材を切り出したって聞いていたので、スギやヒノキの大木が生い茂っているんだと思っていました。
そしたら、竹林と雑木林。かなりイメージと違う感じでした。正直なところ、ちょっとガッカリしちゃいました(^^;)
生えている木はドングリができるブナ科の植物と、竹林のモウソウチク。
里山の雑木林で大木はありませんでした。
木材として仕える種類の木も生えていませんでした。ブナ科の木々となると、薪や炭くらいですかねー。人里近くの里山って、薪や炭を得るためにブナ科の木々を植え付けるものなので、江戸城築城に使えるような樹木が本当に生えていたのかなって疑問に思ってしまいます。
鬱蒼と茂る常緑樹。どれも樹齢は若いですね。薪炭として切り出していたのでしょう。
とても細い道なんですが、たまに車が通ることもあります。
けど、静かで良い場所でした、気持ちが落ち着くような場所です。
庚申塔
途中にある3基の庚申塔。そこに御林の説明案内板が立っています。
近所の人かな、しっかりと管理もされているみたいです。
雰囲気がねー、いいんですよぉ~。江戸時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ります。
現在では住宅地の交差点に建てられていたり、誰も目を向けることのないようば道端に建てられている庚申塔ですが、建てられた当時はこんな感じの場所に建てられていたんだろうな思います。そうやって色々なことを考えていると心がウズウズしますねぇ~(^^)
デザイン的には一番左側の庚申塔が一番好きですが、中央の新しそうでシンプルな庚申塔の台石には名前が確認できました。明治20年1月に建てられたみたい。
確認できた名前は・・・
□□市郎□□、□□音吉
臼井長之助
長島新左衛門、長島大左衛門
齋藤吉五郎、齋藤重右衛門、齋藤市右衛門、齋藤勇蔵、齋藤福松
いちよ確認できた名前です。吉井のあたりって、苗字でいえば長島さんや斎藤さんが多いのかな?一番最初の人の苗字は風化が激しくて読み取れませんでした。
浦賀湊絵図
浦賀湊絵図に掲載されている御林。
もちろんですが、我が家には浦賀湊絵図があるわけではありませんよ。案内看板に載ってたので写真を撮って拡大したものです。
吉井山の御林ですね、すぐ近くには真福寺があります。内川新田も目立ちますね。船蔵谷は現在の舟倉のことかな。川がありますが、平作川でしょうか?
岩
ブラタモリを見ているとついつい岩に目が行ってしまいます。
たぶん泥岩だと思います。海底で堆積した泥が長い年月を経て岩石になったんじゃないかなと思います。見た目からも分かる通り柔らかいので地震には弱いです。
生えている木々を見ると泥岩上を這うように根が張っているので、土質を見ても大木は育ちづらいんじゃないかなって思います。
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