根岸町の丘の上にある墓地。
明治時代、殉職や戦士した海軍の軍人のために造られました。横須賀鎮守府が管理していましたが、戦後は横須賀市に移管され市営墓地として管理されています。
毎年5月、墓前祭が行われます。9月には彼岸花祭りが行われます。写真コンクールもあります。
アクセスは京急の北久里浜駅から徒歩約8分。車の場合、駐車場はありません。近くにコインパーキングがあります。
営業時間は8時30分~17時まで。それ以外の時間は入り口の門が閉まってしまうので入ることはできません。年中無休みたいです。
馬門山墓地の歴史
大津行政センター市民協賛事業・大津探訪くらぶ
馬門山墓地(旧海軍墓地)
明治15年(1882年)海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設しました。
軍艦「河内」、「筑波」等の殉難者の碑や上海事変・太平洋戦争戦没者の忠霊塔などがあり、英霊1592柱(うち、独立埋葬者279柱)が祀られています。終戦までは鎮守府により神式と仏式の交互で式典が行われていました。現在は毎年5月に墓前祭が行われています。
昭和26年、大蔵省より横須賀市に譲渡され現在は市民墓地もあります。
馬門山の名の由来は字名か屋号「馬門・うまかど」を読み替えたものといわれています。
園内はソメイヨシノが多く桜の名所となっています。
昭和52年市制施行70周年記念 横須賀風物百選
「馬門山墓地」
右手の門内約2万5000平方メートルの丘陵地が市営馬門山墓地です。
この墓地は、東海鎮守府長官の埋葬地設定要請に基づいて、海軍省が明治15年(1882年)1月に馬門山海軍埋葬地と定めたものです。
以後、昭和20年(1945年)8月の第二次世界大戦終結までの間、横須賀鎮守府が管理運営にあたってきました。
横須賀鎮守府は、横浜にあった東海鎮守府が、明治17年(1884年)12月に市内の楠ヶ浦(現在の米海軍基地内)に移されて改称したもので、旧日本海軍の中枢的存在でした。
昭和3年(1928年)に定められた「横須賀鎮守府海軍葬儀場規則」によれば、埋葬面積は階級によって6段階に分けられており、士官は8尺四方(約5.6平方メートル)、兵は4尺四方(約1.5平方メートル)となっていました。
墓地は、地形に従って三段に分けられていまし。下段・中段は兵たちの墓地で、高さ1mほどの墓石が整然と並んでいます。芝生が敷きつめられた上段には、7基の供養塔と士官たちの墓石が建っています。
終戦後、市営墓地となると、新たに約4356平方メートルを造成し、墓地を持たない一般市民に提供されました。
現在、この墓地に眠る御霊は次の通りです。
海軍関係
単独埋葬者 279柱
軍艦河内殉難者の碑(大正8年2月建立) 621柱
特務艦筑波殉難者の碑(大正8年4月建立) 152柱
特務艦関東殉難者の碑(大正14年4月建立) 68柱
北京籠城軍艦愛宕戦死者の碑(明治34年5月に建立され昭和7年8月この地に移転) 5柱
上海事変戦死者の碑(昭和8年1月建立) 59柱
第四艦隊遭難殉職者の碑(昭和11年6月建立) 36柱
支那事変大東亜戦争戦没者の碑(昭和28年9月建立) 372柱
一般市民 305基
馬門山墓地の写真
入り口
初めて訪れたのは中学生か高校生くらいだったかな、そのときは近付きがたい雰囲気があり途中で引き返してしまいました。
なんかね、お化けとか出てきそうで怖かったんですよー(^^;)
大人になってから訪れた時は、すでに綺麗になっていました。
久々に訪れた馬門山海軍墓地。
長年、地元での史跡巡りをしているので、最近では初めて訪れる場所がほとんどなくなりつつあります(^^;)
ちなみに、正式に「馬門山」をなんて読むのかは知らなかったりします(^^;)
「ばもんやま」とか「まもんさん」とか?まもんさんだと、ルパン三世に登場するマモーさんみたいだね。マモーさんはルパンVS複製人間に登場したキャラクターです。
私が子供の頃は石垣だってんですよねー、いつのまにか綺麗になっちゃって。けど、歴史好きには石垣のままの方が嬉しいんだけどね。
佐島石はその名前の通り横須賀市佐島で採石される石で、採石場跡は現在でも佐島のトンネル上で確認することができます。三浦層群初声層から採石され、今から400年前頃に造られた地層だと考えられています。
三浦半島の石垣で使われている石は佐島石が多いみたいですね。
山腹に造られた海軍兵墓地なので、坂道と階段ばっかりです。真夏に訪れたのでヘトヘトになりました。
訪れるには体力が必要です!!
新しく墓石を建てる場合、工事がかなり大変だと思います。招魂碑とか大きな石材はどうやって運んだんだろう・・・
下段海軍兵墓地
一番最初に出迎えてくれるのが拝霊堂です。
なんとなく洋風でキリシタンっぽい雰囲気のある拝霊堂です。
堂内には木製の位牌のようなものがありました。
扉はマグネット式でした。
猿丸重野さんは兵庫県出身の看護婦で、中国上海に滞在し、海軍部隊の世話をしていました。海軍婆さんって呼ばれていたらしいです。晩年は衣笠の共楽荘で静養していましたが、1953年(昭和28年)に72歳でなくなりました。
共楽荘は今でもある大きな老人ホームです。
猿丸姓はとても珍しい苗字ですが、ほとんどが兵庫県出身で古墳時代の天皇だった用明天皇の後裔である弓削王の別名の猿丸大夫からって伝えられています。横須賀市だと秋谷に多いのですが、猿丸重野さんの親戚だと思います。
海軍兵の墓石が整然と並んでいます。
前に訪れた時と違うなって感じたのですが、どうやら傷んでいる墓石は修復したみたいですね。倒れていたものを直したり、風化していた墓石を修復するなどしたようです。
芝生も綺麗になっていました。
先祖代々の墓ではなく一人の海軍兵の墓なので、現在では墓参に訪れる人はいないようです。
私のように観光で訪れる人が記念に写真を撮影して帰る程度。
遺族がいるお墓もあるんだろうけど、高齢になっていると思われるので訪れるのも大変なんだと思います。花などが供えられているのも見たことないですねー。
同じ大きさ、同じ石材の墓石が整然と並んでおります。
すべてが第二次世界大戦の際に亡くなったわけではなく、さまざまな理由で亡くなった海軍兵たちの墓だとは思うのですが、多くの墓石が並んでいると多くの人の命が失われたのだなと考えずにはいられません。
ブログ用の写真を撮りに来たんだけど、戦争について考えさせられてしまいます。
下段市民墓地
現在の墓地に比べると、何倍も大きな面積のあるお墓です。
とても立派なお墓が多いのですが、無縁となってしまったお墓が多いなっていう印象です。
キリスト教徒が多いのかなとも感じました。
中段海軍兵墓地
なんて書いてあるのか良くわからないんですが、とりあえず招魂碑です。
こういった書体とか毛筆とか、昔の漢字とかさ・・、読めなくてさー(^^;)
下段は芝生が綺麗に整備されていましたが、中段はあまり芝生が生えていないみたいです。
諸事情があって枯れてしまったのかな?
すべて同じ規格で造られた墓石。
税金で造られたのかなと思います。遺骨が埋葬されているのかどうかまでは調べていないのでわかりません。供養塔的なお墓で、墓標としてのお墓ではないのかもしれないですね。
中段市民墓地
中段にある市民墓地はわりと広いです。坂道を下っていく感じの場所にあります。
こちらは無縁になったお墓は少ないなと感じました。
空き区画もあるんですが、募集はしていないようです。
たぶん募集の再開もあまり期待できないんじゃないかなと。前に広報に募集があったような気がするんだけどなー。
車が入ることができないので大変そうです。
ずーっと坂道ばかりです。
最上段まで行くのはかなりの体力を擁します。私はヘットヘトに疲れちゃって、翌日には筋肉痛となりました(^^;)
上段供養塔エリア
頑張って最上段にある芝生の広場まで辿り着けました。脚はすでにカクカクとしています。
広い芝生がありますが、子供が遊んでいたりといったことはありませんでした。なぜなら、ここまで来るのが大変だから(^^;)
上海事変で亡くなった人のために建てられた供養塔です。1933年(昭和8年)1月に建立されました。
上海事変は第一次と第二次とに分かれているので、ネオ・ジオン抗争みたいですね。内容は全然違うけど。
第一次上海事変は1932年(昭和7年)1月、日本が軍隊を上海に上陸させ、中国軍と衝突した事件。満州事変に対する世界の批判の目をそらし、中国民衆の抗日運動を弾圧することを目的としましたが、強力な抵抗にあって5月に日本軍は撤退した。普通は上海事変っていうとこちらのことを指すと思います。
大日上海事変は1937年(昭和12年)8月、日華事変の最中、日本軍が上海に進撃し全市を占領した事件。日中戦争をさらに拡大させるきっかけとなりました。
建立年代から考えて、第一次の方の供養塔になります。下段海軍兵墓地にあった拝霊堂と同じデザインになっています。
機動戦士Zガンダムに登場するジ・Oの頭部のようなデザインとなっています。1953年(昭和28年)9月に建立されました。
支那事変は日中戦争(1937年~1945年)のことで、日本側が支那事変って読んでいました。大東亜戦争は太平洋戦争(1941年~1945年)のことで、こちらも日本側による呼称です。
教科書に掲載されることがないので有名ではない第4艦隊事件。
1935年(昭和10年)9月、岩手県沖で起きた大規模な海難事故です。台風が原因で日本海軍の多くの艦艇が被害を受けました。沈没することはありませんでしたが、24人が犠牲となりました。
河内は横須賀海軍工廠で建造された日本最初のド級戦艦です。1912年(明治45年)3月31日に竣工しました。その当時としてはかなり優秀な戦闘艦でした。
1918年(大正7年)7月12日、徳山湾で爆発事故が発生し沈没しました。そのときの殉難者を供養するために建てられた石碑です。621人が殉職したと言われています。
1907年(明治40年)1月14日に呉工廠で竣工した巡洋艦です。日露戦争で失われた戦艦初瀬と戦艦八島の代替として急遽建造されました。
1917年(大正6年)1月14日、横須賀港に停泊していましたが大爆発事故を起こしてそのまま沈没してしまいました。125人が殉職し、27人が行方不明となりました。
昔の軍艦って事故が多いですね(^^;)
変わった経歴を持つのが工作艦の関東。
1900年3月、デンマークのコペンハーゲンで竣工し、ロシア汽船のマンチュリア号となりました。
日露戦争中の1904年2月9日、旅順港沖を航行中に日本軍に拿捕されました。その後、日本海軍所属の艦となり艦名も関東丸→関東となりました。
1924年12月12日、福井県下糠浦海岸の二ッ栗岩に激突し沈没し、99人が亡くなりました。その時の事故の慰霊碑です。
1886年7月17日、横須賀造船所で竣工した砲艦愛宕。艦これでも有名な高雄型重巡洋艦の愛宕よりも古い方の愛宕です。
1900年6月~10月にかけての義和団の変で活動しました。その時の戦死者の慰霊碑です。
1904年10月6日、哨区に向かう途中で北隍城島と南隍城島の間で座礁し沈没してしまいます。乗員は駆逐艦薄雲により救助されています。
四隅にある砲弾とか、錨は実際に愛宕で使われていたものだと思います。
上段海軍士官墓地
こちらは大きな墓石が使われていたり、のちの時代に建て替えたと思われる墓石が並んでいました。
たぶん海軍士官の墓地だと思うんだけど・・・
市民墓地だったりしてね(^^;)
上段市民墓地
馬門山墓地の最奥に位置する市民墓地。
もうね、ヘトヘトに疲れちゃってたから軽く写真を撮っただけで撤収しました。
熱中症になっちゃうかと思いましたよ。
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