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足利公方屋敷跡


足利公方屋敷跡

バス停泉水橋下車 徒歩3分
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足利公方屋敷跡
足利公方屋敷跡

 住宅の脇にポツンと建っている足利公方屋敷跡の石碑。天下をとった足利家の歴史を考えると、屋敷跡は石碑しか残っていないというのは、なんだかとても寂しいですね。
 室町時代の前半、鎌倉公方として関東一円に力を及ぼしていた足利家の屋敷があった場所です。胡桃谷の東側の街道に沿った一帯が、屋敷跡になります。地元の人は、この辺りのことを「お屋敷」って呼んでいます。
 足利尊氏がこの地を選んだのは、祖の足利義兼が鎌倉幕府開設の時、この地に住んでいたことから、この地に館を構え、足利義詮(あしかがよしあきら)を住まわせました。
 1338年(延元3年・暦応元年)、京都に室町幕府を開いた足利尊氏は、地方の勢力を抑えるために九州と東北に探題を設置し、鎌倉時代からの政治軍事の中心地である鎌倉には鎌倉府を設置しました。
 足利尊氏の子、基氏(もとうじ)を鎌倉府の主として鎌倉公方とし、関東8ヶ国、甲斐、伊豆の10ヶ国を収めました。以後、基氏の子孫が代々鎌倉公方となり、足利成氏(あしかがしげうじ)が下総(しもうさ)の古河(こが)に移り住むまで、鎌倉は東国の中心として栄えました。

写真撮影:2009年02月17日

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足利公方屋敷跡
足利公方屋敷跡

 鎌倉の観光名所を紹介する石碑、どうしてこんなに立派な石碑が各所に建てられているのか不思議に感じます。どこに行っても、ほとんど同じデザインの石碑が建てられています。
 碑文によれば、1920年(大正9年)3月、鎌倉町青年会で建てた石碑です。
 鎌倉公方屋敷は、『新編鎌倉志』、『新編相模風土記』などに記載されています。
 関東将軍と呼ばれていた足利鎌倉公方に次いで大きな力を持っていたのは、執事の上杉氏でした。上杉氏は多くの家に分かれていて、一族のうちの扇ガ谷(おうぎがやつ)、宅間(たくま)、犬懸(いぬがけ)、山ノ内(やまのうち)の4家で、足利鎌倉公方の政治を助ける関東管領(かんとうかんれい)の職を務めました。

写真撮影:2009年02月17日

足利公方屋敷跡

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足利公方屋敷跡
足利公方屋敷跡

 足利公方屋敷跡の石碑の碑文は、読み取りづらいですねー。もう少し彫りが深ければ、コントラストがハッキリして読みやすいんだけど。
 頼朝開府ノ初足利義兼居ヲ此ノ地ニトシテ以来 二百数十年間子孫相嗣イデ此ニ住ス
 尊氏覇ヲ握リテ京都ニ遷ルノ後 其ノ子義詮二代将軍トナリテ京都ノ邸ヲ嗣ギ 義詮ノ弟基氏関東管領トナリテ 兵馬ノ権ヲ此ノ邸ニ執ル
 而シテ之ヲ子孫ニ伝フ子孫 京都ニ比擬シテ公方ト僭称ス
 享徳四年公方成氏執事上杉憲忠トノ不和ノ事ヨリ 下総古河ニ遷ルニ及ビテ遂ニ永ク廃虚トナル
 こんな感じのコトが書いてありました。改行とか加えちゃったんだけど、間違えたところに加えてたらスマン!
 気になったのが、最後の「永ク廃墟トナル」。こんな住宅地に廃墟があったなんてー!!

写真撮影:2009年02月17日
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