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 現在ではその存在はかなり薄れてきて、都会であればあるほど、こうした習慣が忘れ去られていってしまいますが、ムラには講と呼ばれる信仰的集団があります。
 現代の言葉で言い換えるならば、サークルのようなものです。
 大きく分類すると、外部の社寺などと結びついた講と、ムラの内部だけで行われる講の2つになります。


講の歴史

 元々は「講義」、「講読」の「講」で、平安時代には仏典を読み解き研究する僧の集団でした。
 のち、仏典の講読を中心とする仏事を講会と呼ぶようになり、各種仏教儀式一般を講と呼ぶようになりました。
 中世のころになると民間にも浸透し、様々な信仰集団に「講」という名称が付けられるようになりました。外部から導入されたものと、地域社会の中から自然発生的に生まれたものとに大別されます。
 戦国時代になるとさらに発展し、講の元締めが地侍となっていったり、浄土真宗の講の組織では一向一揆に発展しました。


外部の社寺と結びついた講

 特定の社寺や教団に対する崇敬者による団体を、講と呼びます。
 浄土真宗の報恩講、日蓮宗の題目講など、仏教の宗派と関連して、その信者たちによって結成されるものがあります。特定の寺院と密着した成田講などの仏教講もあります。
 神社と結びついたものとしては、伊勢講、金毘羅講、秋葉講などはたくさんの種類があります。
 社寺の格が高いものほど、ムラの範囲を超えて広い範囲に構成員を持ちます。講の構成員は講員と呼ばれ、講を運営する講元、副講元、世話人などの役員を選任し、信仰する社寺から委嘱されました。
 修験道の色彩が強い山岳崇拝にもとづくものとしては、富士講、御岳講などがあります。修験者が霊山への登山を勧めて全国を回ったため、各地に参拝講が造られました。これが発展し、各地の神社・寺院に参拝する講が多数作られるようになりました。横須賀市には三浦富士と呼ばれる富士山があるため、富士講は盛んでした。
 講員から数名を選び、代表して参拝を行うのが普通です。


ムラの内部での講

 外部の社寺と結びついたものではなく、ムラの中の特定の神仏に対する信仰によって作られた講もあります。
 山の神、田の神などによる講、庚申講、二十三夜講などがあります。
 講を構成するメンバーの家を宿にして集まり、祈願したあと、一同で飲食して楽しく過ごすのが一般的です。
 ムラの中にはこういった講がいくつも存在し、それぞれの講で加入者は違う場合があり、一軒の家でいくつもの講に加入するのがふつうでした。
 三浦半島では庚申塔が多いことからもわかるとおり、庚申講は盛んの行われていました。


相互扶助の講

 無尽講、頼母子講などのように、相互扶助団体の名称としても講と呼ばれます。
 みなでお金を出し合って、くじや入札によって講員に融通するものです。


旅籠の組合も講のひとつ

 江戸時代の中頃になると、強引な客引きや飯盛り女を嫌う人々も多くあらわれ、安心して宿泊できる宿が欲しいという要望が増えてきました。
 そして、各地で旅籠による組合が組織され、これも講と呼ばれるようになりました。旅籠の入り口や軒下などに目印となる看板を掲げ、これを講札といいます。
 講札を掲げるということは、安心して宿泊できる宿ということになります。古くから続いている旅館には、現在でも講札があるところもあります。

庚申講・庚申待

庚申塔
庚申塔

 日本の民間信仰で、庚申の日に神仏を祀って徹夜をする行事のことを庚申待、宵庚申、おさる待ちと言います。村単位などの集団で行われ、その集りのことを庚申講、庚申会、お日待ちなどと言います。

 中国の道教の伝説に基づいています。
 人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫がいて、つねにその人の悪事を監視しているとされています。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間、天に登って閻魔大王に日頃の行いを報告し、罪状によって寿命が縮められたり、死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると言われています。三尸の虫が天に登れないようにするため、この日の夜は村中の人達が集まって神々を祀り、囲炉裏を囲んで寝ずに酒盛りなどをして夜を明かしました。
 60日に1回、庚申(かのえさる)の日が巡ってくるので、その日に行います。男性が中心になって行われる行事ですが、庚申様は月のモノや出産の汚れを嫌うとされているので、女性は食事の準備や片付けを行いました。
 庚申待を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔です。三浦半島では特に多く残っています。

 本では平安時代から公家や僧侶によって行われ始め、すごろくや詩歌管弦を楽しんでいました。『枕草子』にも庚申待の話が登場する。
 江戸時代になると、民間にも浸透していきました。
 現在では庚申信仰は廃れてしまいましたが、今でも行っている地域もあります。

 庚申待では徹夜で過ごさなければならないので、顔にスミを塗ったり、胡椒をかけたり、太鼓を叩いたりなども行っていました。籠城中の兵士達も庚申待を行っており、カフェインが入っている茶を飲んで眠らないようにしていました。

 仏教では、庚申の本尊は青面金剛か帝釈天とされています。
 神道では猿田彦神とされています。庚申の「申」が、猿田彦の猿と結び付けられたものと考えられています。また、猿は庚申の使いとされ、庚申塔には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が彫られています。山王信仰・三猿信仰は、ここから生まれました。


富士講

富士講碑
富士講碑

 江戸時代に成立した民衆信仰のひとつで、江戸を中心とした関東で流行しました。

  富士講の活動は、定期的に行われるオガミ(拝み)と呼ばれる行事と、富士登山・富士詣からなっています。
 オガミではオツタエ(勤行教典)を読み、オガミダンス(拝み箪笥)と呼ばれる組み立て式の祭壇を使ってお炊き上げを行います。
 信仰の拠りどころとして、富士山に似た形の自然の山や、石や土を盛って富士山の神を祀った富士塚を築き、富士山の代用としました。
 中部地方・近畿地方では、修験道に由来する富士信仰の講集団も富士講(浅間講)と呼ばれています。初夏に水辺で行われる水行(富士垢離)を行います。

 御師(おし)と呼ばれる人々が、角行が説いた信仰の指導者となりました。江戸などの富士講を回って教えを説き、夏になると家に富士講の講員がやってくるので、宿を提供し、登山に必要な食料や装備、情報を提供しました。
 講員には富士登山を記念する「富士講碑」を奉納する文化もありました。「笠印」というマークの刻印がされます。

 第二次大戦後、富士山周辺は観光地化され、登山がレジャーとなり、気軽に富士登山を楽しめるようになりました。こうして、登山の動機を信仰に求めていた富士講は衰退していきました。
 しかし、現在でも富士山に行けば富士講講員らが巡礼する姿を見かけることもあります。

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