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隣接している洲崎神社に比べると、ずいぶんと立派ですねー。立派すぎます。お寺はお金持ちですなー。「りゅうげじ」と読みます。
山号は知足山といい、真言宗のお寺です。
縁起によれば、文治年間(1185年〜1190年)に、源頼朝と文覚上人(もんがくしょうにん)が六浦山中に弥勒菩薩を本尊とする浄願寺を建立しました。上行寺東遺跡の建物跡などの遺構が、浄願寺の一部とする考えもあります。
上行寺はココかな?
三浦半島観光地図:鎌倉市大町・上行寺 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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とても立派な山門ですね。うちの玄関の門も、こんな門だったらいいのになー。うちなんて、錆びてキャスターが動かないから、シャッターを持ち上げて開け閉めしてますよ。
13世紀中頃には忍性(にんしょう)が来往して戒律をひろめ、称名寺とも密接な関係にありました。
1478年(文明10年)、兵火によって焼かれました。1499年(明応8年)、住持の融弁は兼帯していた光徳寺を併合して、洲崎の地に寺を再建し、龍華寺としました。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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龍華寺の本堂と、観音菩薩です。
本尊は1620年(元和6年)、現在の大日如来となりました。
徳川家康の関東入国の際、寺号を取次衆が誤って「龍源寺」と伝えてしまいました。徳川家康は、「立源寺」の響きがあって吉兆だと喜び、寺領を五石与えられました。以後、公儀への書類には龍源寺と書かれるようになりました。
近世には塔頭(たっちゅう)4院、末寺20余寺を要する、武州の密教教学の中心寺院として栄えました。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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なんて立派な鐘楼なんでしょう!!この鐘楼を見たときは、かなり感動しました。ただただ「すっげーなー」って思いました。
茅葺きの厚い屋根を持った梵鐘なんて、そうそう目にすることはできないですよ。
この梵鐘は神奈川県の重要文化財に指定されています。1541年(天文10年)、古尾谷重長が寄進した梵鐘です。
鐘身はほっそりとしている古様式の梵鐘です。鎌倉時代末期に鋳造され、鋳ばなしのまま仕上げをせずに置かれていました。そして、天文10年に龍華寺の鐘をして、銘が刻まれたものと推定されています。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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宝物殿でしょう。
横浜市の有形文化財に指定されている絹本著色融辨和尚像(けんぽんちゃくしょくゆうべんおしょうぞう)があります。
法衣(ほうえ)を着て、上畳上に座り、右手に扇子、左手に五鈷杵を持っています。当時、中興開山の融辨和尚没後(1524年)、まもなくの肖像と考えられています。
描法は、大和絵様式(やまとえようしき)の似絵風(にせえふう)ですが、墨彩色を多用するなど、どこか禅林頂相(ぜんりんちんぞう)の趣が感じられます。
近年改装されていますが、中世末期(室町時代)における、この周辺地域の文化水準を示す上で重要な資料となっています。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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不動明王が祭られている御社です。
不動明王は、密教の本尊の大日如来の化身、またはその内証(内心の決意)をあらわしたものとされています。庶民には一般的に、「お不動さん」という名で親しまれています。
煩悩をかかえ、もっとも救いがたい衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしているといわれています。救いがたい僕のような人間でも、救ってくれるお不動さんです。
一面二臂で剣と羂索を持つものが基本となっています。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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不動明王を守る小さな狛犬。ちいさなワンちゃんみたいで、可愛いのです。でも、作られたのはかなり古いんじゃないでしょうか。
犬に似た想像上の生き物とされています。正確にいうと、獅子と狛犬とに分かれます。向かって右側の像は阿形(あぎょう)で、角がなく口が開いています。写真の狛犬は阿形です。
向かって左側の像は吽形(うんぎょう)で、1本の角があり口を閉じています。
角のない方の像が「獅子」、角のある方の像が「狛犬」になります。最近作られる狛犬は、ほとんど角がないので獅子になるのかな? |
写真撮影:2007年06月08日 |
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境内には、いろいろなお堂がありますねー。
最近の水子は、人工妊娠中絶や流産、死産により死亡した胎児のことです。水子の祟りなどと言われますが、そういった言葉は霊感商法やマスメディアの影響だと思います。
昔は、7歳以下の子供はまだ「人の子」ではなく「神の子」とされ、死んでも仏にならないと考えられていたため、一般の人とは違う葬儀や埋葬が行われていました。
この世で罪を犯さなかった「穢れなき存在」と考えられていたため、人に祟るという信仰観はありませんでした。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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龍華寺には太子堂がありました。
太子堂は、聖徳太子の像を祀ったお堂のことです。聖徳太子は仏教を厚く保護したことから、宗派を問わず、聖徳太子の像を祀った堂があります。
太子堂とは関係ありませんが、像高76cmの木造地蔵菩薩坐像があります。横浜市の有形文化財に指定された彫刻です。寄木造で、内部は漆箔、着衣部は黒漆塗で作られています。
境内の地蔵堂の本尊となっており、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持ち、岩座上の蓮台(れんだい)に安座しています。光背は輪光(りんこう)で、持物(じもつ)、台座、光背などは、後から作られました。また、左手の第二、三、四、五指の指先は欠損しています。
首臍(ほぞ)内側と頭部内の墨書銘から、1524年(大永4年)、仏師上総法眼(かずさほうがん)が造立したことがわかりました。作者の上総法眼は鎌倉の仏師で、名を宗琢(そうたく)といい、1513年(永正10年)、藤沢市江島神社八臂弁財天坐像彩色、1549年(天文18年)、鎌倉市大長寺北条氏綱夫人坐像の造立などに携わっています。衣のシワの表現に宋元風の特色が良く示されています。
造立年代、作者ともに明確な室町彫刻として、資料的価値の高い作品です。胎内納入文書によれば、須崎村の地福寺(廃絶)にあった像で、1695年(元禄8年)、1835年(天保6年)に修理されています。
三浦半島観光地図:神奈川県藤沢市江ノ島 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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震災殃死漂流者供養塔 |
京急金沢八景駅下車 徒歩10分
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関東大震災で亡くなった人のために立てられた慰霊碑です。
像高30.5cmの木造弥勒菩薩坐像も残っています。横浜市の有形文化財に指定されています。
銅造の宝冠(ほうかん)をかぶり、腹面の両手上に宝塔を乗せ、両袖と裳裾(もすそ)を垂下(すいか)しえ、蓮台に安座しています。
宝髻(ほうけい)と法衣垂下部左方付け根の一部、また光背に欠失がみられます。銘文はありませんが、体内納入文書のうち二種の朱書願文(しゅがきがんもん)には奥書(おくがき)があります。
像は複雑に刻んだ衣のシワや、法衣垂下の形式に宋元風の特色を示しており、柔軟な写実性を欠くものの彫技としては丁寧で、願文の書かれた1500年(明応9年)頃の造立と考えられます。
寺蔵の「金沢龍源寺略縁起」によれば、古くからあった浄願・光徳両寺が退転したため、明応8年に融弁(ゆうべん)が資方の助力を得て、両寺を合併して新しく建てたのが龍華寺だといわれ、本像は当寺誕生時に造られたことになります。
室町時代の典型的な法衣垂下像の佳作として、また龍華寺の歴史を考える資料として、価値の高い像です。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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近隣から集められた石仏でしょうか?ほとんどが庚申塔です。
ですが、一番手前の右側の石仏は、庚申塔ではありませんでした。庚申塔風に見えますが、道標でした。「左保土ヶ谷道」と彫られています。
龍華寺の前の道路は曲がりくねっていますが、称名寺や、保土ヶ谷へ通じる古道になります。その道標を、ここに移動させたものと思われます。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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こちらはお墓やお地蔵様などでしょうか。たくさんの石仏群が並べられています。
歴代住職さんのお墓のようです。この近くに泥亀新田の開拓者、永島段右衛門のお墓があるそうです。号を泥亀といいます。
史跡巡りに行ったときは、永島段右衛門のお墓があることを知らなかったので、見つけることはできませんでした。金沢八景駅やダイエーからも近いので、次に行く機会があったら探してみます。東急車輌にも行ってみたいし。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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かなり新しいもののようですが、ボケ封じです。最近は流行の観音様ですね。
老後に希望を持つことのできない日本の象徴というべきでしょうか。痴呆になっても安心して暮らせる国になって欲しいものです。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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龍華寺は、横浜金沢七福神のひとつなんですね。こちらは大黒天になります。七ヶ所、すべて回ることができるかな?三浦七福神も、まだコンプリートしてないんですよ(^^;)
この大黒天像の後ろ側、山門の右側に、地蔵堂があります。写真を撮っちゃいけなさそうな雰囲気があったので、撮影しませんでした。この地蔵堂は、もとは瀬戸橋東にあったものです。
1524年(大永4年)、造立の地蔵菩薩坐像が安置されています。 |
写真撮影:2007年06月08日 |
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