横須賀市東浦賀 |
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かつてはとても賑わっていた町 |
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現在からは想像もつきませんが、江戸時代には、相模の国では小田原の次に浦賀が栄えていたといわれています。浦賀周辺は、横須賀市でも歴史がたくさん詰まっていますが、あまり大きな名所・史跡などは残念ながらありません。
ですが、いくつか大きな規模のお祭りが行われます。ハウステンボスから咸臨丸がやってきたりもして、多くに人で賑わいます。
せっかく東浦賀に来たら、記念にフェリーに乗船しても楽しいかと思います。 |
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八雲神社 |
京急浦賀駅下車 徒歩5分
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祭神素戔嗚尊(すさのおのみこと)、創建は1726(享保11)年、中興は元禄年間(1688〜1704)に没した栄達。
この社殿は、昔、満宝院八雲堂という伊勢原の大山を信仰する人たちの祈祷寺として建てられたものですが、明治の神仏分離令によって、神社として残りました。一般の神社の建築様式とは、ちょっと変わっています。
能面2面が神宝として残されています。
社殿にある嗽鉢には『文化六己巳(1809)九月・世話人中村長八、石渡源助』とあります。
この周辺は畠中といい、江戸時代の記録にはここに腸谷堂という学問所がありました。江戸大相撲の興行も開かれたと記されています。また、東浦賀を代表する干鰯問屋の宮原屋与右衛門と宮原屋治兵衛の家があり、江戸中期以降に新たに干鰯問屋を開いた人たちは、この周辺に固まっていました。
毎年、6月上旬にお祭りが行われます。 |
乗誓寺(じょうせいじ) |
京急浦賀駅下車 徒歩12分
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山号は東教山阿弥陀院、宗派は浄土真宗、京都西本願寺末寺、本尊は阿弥陀如来、開基は了源上人です。
寺伝によりますと、了源は、曽我十郎祐成の子で、のちに、河津三郎信幸と称したと伝えられています。しかし、伊東祐親の次男・祐清の子の伊東四郎祐光(ニーンの伊東四郎じゃないよ)であるともいわれており、定かではありません。
了源は、1227(安貞元)年、平塚に阿弥陀堂を建てました。しかし、文明年間(1469〜1487)に宗徒が大谷派破却の際、この阿弥陀堂も破却の噂があり、時の僧・空浄は寺を捨て、本尊を持って浦賀に来て、1470(文明2)年3月にこの寺を建て、阿弥陀堂と称しました。
元和年間(1615〜1624)に僧・空覚が中興し、1637(寛永14)年に現在の寺号に改めました。
江戸末期には、画僧として名高い雲室が、このお寺で、数日間、儒学などを講じたといわれています。
1871(明治4)年6月に設立された、東岸郷学校の校舎として使われ、その後学制によって設立された東岸学舎(浦賀小学校の前身)でも校舎として使われました。
墓地には、干鰯問屋の主人の大きなお墓が立ち並んでいます。
お寺の前の通は切り通しになっていて、後北条氏の浦賀城の空堀跡だといわれています。
住職は、代々曾我兄弟の十郎の子孫であると、お寺の由緒には書かれています。 |
顕正寺(けんしょうじ) |
京急浦賀駅下車 徒歩12分
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山号は東耀山(とうようさん)、宗派は日蓮宗、金谷大明寺末寺、本尊は三宝本尊像、開山は顕正坊日実、創建は1572年(天正元年)です。
寛永年間(1624〜1644)に、信徒の寄付によりお寺を建立しましたが、1856年(安政3年)の火事によって灰と化しました。
本堂横には、江戸時代の陽明学者・中根東里のお墓があります。もとは伊豆下田の人で、なくなる数年前に浦賀奉行所与力に嫁いだ姉の合原氏を頼りに浦賀に来ました。1765年(明和7年)、73才で亡くなりました。
同じく、浦賀に和歌を広めた西野前知(さきとも)のお墓、咸臨丸に乗った岡田井蔵(おかだせいぞう)のお墓、幕末に千代田型という国産の軍艦を建造した春山弁蔵のお墓、直木賞作家の山口瞳のお墓もあります。 |
東耀稲荷神社(とうよういなりじんじゃ) |
京急浦賀駅下車 徒歩12分
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祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、創建は不明です。
この稲荷社では、この土地の里神・須賀神社が合祀されているので、地元では『須賀神社』と呼ぶ人もいます。
創建は1782(天明2)年で、昔は顕正寺の住職が管理していました。
火事除けに御利益があるといわれています。
浦賀にいくつかある稲荷社の中では、比較的豪華に作られています。欄間、格天井には彫刻が施され、お堂の屋根瓦の先端部には、大黒天・恵比寿の飾りが施されています。
東耀稲荷の下の道は『山際通り』と呼び、新町郵便局前で『河岸通り』と『中通り』から来た道と合流します。合流地点を右に折れ、中通りの所まで来ると駐車場があり、その一角に干鰯蔵が2棟、そのはす向かいには石蔵があります。 |
徳田屋跡(とくだやあと) |
京急浦賀駅下車 徒歩15分
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江戸時代から、明治・大正まで続いた浦賀の代表的な割烹旅館。現在は廃業しています。
1853(嘉永6)年のペリー来航の際には、佐久間象山と吉田松陰がここで面談し、今後の対応策を協議しました。また、桂小五郎、安藤広重など、浦賀を訪れた武士や文人は必ずといっていいほど、ここに宿泊しています。
1923(大正12)年の関東大震災で倒壊しました。 |
専福寺(せんぷくじ) |
京急浦賀駅下車 徒歩15分
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山号は永昌山或寿院、宗派は浄土宗、本尊は阿弥陀三尊です。開基は1504(永正元)年10月に僧・槃誉久悦によります。開山に呑龍上人を祀っています。
俳人・小林一茶が訪れた記録があります。1806(文化3)年に、すでに19年前に没していた初恋の人おひさのお墓参りで来たといわれています。しかし、墓石は確認されておりません。一茶の句碑には、浦賀で詠んだとされている
【涼風も けふ一日 御不二哉】
【夕立の 祈らぬ里に かかる也】
の句が刻まれています。
幕末の歌人・福井貞斎のお墓があります。1870(明治3)年に80才でなくなりました。1840(天保11)年に19才の若さで没した娘・梅薫と貞斎の辞世の句と歌はそれぞれ
【には鳥の 散らす松葉や 別れ霜】、【何事も よしやあし屋に さはがしの 世をのがれて行 身こそ楽しき】
と刻まれています。
浦賀町長を務めた回船問屋河津屋の太田又四郎のお墓もあります。 |
東林寺(とうりんじ) |
京急浦賀駅下車 徒歩15分
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山号は浦賀山立像院、宗派は浄土宗、鎌倉光明寺末寺、本尊は阿弥陀三尊、開基は僧・良通、創建は1523(大永3)年。
1856(安政3)年火事で焼け落ち、1879(明治12)年再建、1923(大正12)年関東大震災で全壊、翌年に復興しました。
横須賀市の文化財に指定されている『阿弥陀二十五菩薩来迎図』、『銅造阿弥陀三尊立像』が保存されています。前者は、鎌倉時代後期の作といわれ、阿弥陀如来が雲に乗り、天上から死ぬ間際の人の所にお迎えに来る様子が描かれています。後者は室町前期作と思われる善光寺式阿弥陀仏といわれ、長野の善光寺の阿弥陀仏を真似て作られたものです。
墓地には、浦賀奉行所与力の中島三郎助と子供の恒太郎・英次郎のお墓があります。ともに、戊申戦争時に函館で戦死した父子です。
人物事典:中島三郎助
参道の入口には、洲崎の町内稲荷の三浦稲荷の石の鳥居があり、その手前には、遊郭(浦賀では洗濯屋と呼ぶ)の主人から僧侶に転身した江戸屋半五郎が建てた『南無阿弥陀仏』の念仏塔があります。
参道をまっすぐ海まで出たところを、古い字(あざな)で『阿弥陀ヶ浜』といいます。東林寺の本尊の阿弥陀仏が、この海岸に流れ着いたことにより名付けられたといいます。 |
法憧寺(ほうどうじ) |
京急浦賀駅下車 徒歩18分
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山号は円城山、宗派は浄土宗、鎌倉光明寺末寺、本尊は阿弥陀三尊、開山は観誉祐崇上人、創建は1508(永正5)年。
山号に『城』という文字があり、裏山が後北条氏時代の浦賀城であったことを物語っています。
また、かつては山上に薬師堂があったそうです。本堂には、大きな薬師如来が祀られています。
石段の右奥には、玉泉院という小さなお寺がありましたが、今は廃寺となり、墓石だけが残されています。
墓地の奥には、壱岐の出身で昌平黌(しょうへいこう)に学んだといわれる漢学者・清水雅之助のお墓があります。浦賀を訪れた宮部鼎蔵(みやべていぞう)・吉田松陰も面会を求めたほど、浦賀では有名な人だったようです。 |
干鰯問屋(ほしかどんや) |
京急浦賀駅下車 徒歩分
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干鰯問屋の古びた倉庫や、干鰯問屋が持っていた桟橋の面影をみることが出来ます。
江戸時代初期、イワシを追って関西・四国方面から多くの漁民が移住してきました。
干鰯とはイワシを干して固めたもので、当時は『金肥』と呼ばれ、錦やタバコ、アブラナなどを栽培するのに最高の肥料とされていました。
天保(1830〜1844)の頃には、干鰯の販売権を持つ問屋30件が軒を連ねていたといいます。当時、江戸ではあまりさえなかった茶やタバコの取引もこの浦賀で行われ、干鰯は浦賀の経済を大きく支えていたようです。 |
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