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中島三郎助


江戸湾防備が強化された時代に生まれる

 会津藩は本格的な江戸湾警備のため、三浦半島に派遣されていました。その使命を終えた1821年(文政4年)1月、浦賀奉行所の役宅に生まれました。
 名前は中島三郎助永胤(なかじまさぶろうすけながたね)といい、近代造船史に名前を残します。
 この当時、会津藩の跡役として江戸湾防備を任された浦賀奉行所は、開所以来の忙しさだったようです。

モリソン号事件と砲術の取得

 父・中島清司永豊は、浦賀奉行所の与力でした。三郎助は14歳になると与力見習いとして奉行所に出仕するようになりました。
 まもなく、日本の内外に大きな波紋を呼んだアメリカ船のモリソン号砲撃事件にかかわることになります。以後、海防問題に強い関心を抱くようになりました。
 砲術に関しては特に秀でており、諸流派の免許皆伝になりました。高島秋帆によってもたらされた洋式砲術にも知識を広げ、大砲の製造から砲台の建設に至るまで、幅広い知識を学んでいきました。
 1846年(弘化3年)閏5月、今度はアメリカ東インド艦隊のビッドルに率いられた2隻の軍艦が江戸湾に来航しました。
 軍艦の持つ圧倒的な圧力を目の当たりにして、軍艦の必要性を強く感じるようになっていきました。

砲術の披露

 外国船が頻繁にやってくるようになると、幕府の要人も頻繁に海防の現場を視察に訪れるようになりました。
 浦賀奉行所では中島三郎助らによって、大砲の試射を披露しました。こうして、三郎助の評判は江戸でも高く評価されるようになりました。

蒼隼丸の建造

 1847年(弘化4年)、浦賀奉行所が戸田伊豆守と浅野中務に相次いで交代すると、浦賀奉行所の海防の役割は一層強化されました。
 それにともない、軍艦建造も本格的に始まりました。
 幕府は勘定奉行が中心となって軍艦建造に反対していたため、和船に改良を加えた蒼隼丸(そうしゅんまる)を完成させました。
 蒼隼丸は三郎助らによって、船用に製造した大砲が乗せられ、軍艦らしいものになりました。
 蒼隼丸は、1849年4月(嘉永2年3月)に起工され、わずか4ヶ月後の8月(嘉永2年6月)に完成させました。比較的小型の帆船ですが、西洋式帆船のスループ構造を取り入れ、江戸湾警備用として同型船が量産されました。

失火により失われる蒼隼丸

 大砲の射撃、製造、火薬の調合に至るまで、当時としては一流の腕前となりました。
 そのため、1849年(嘉永2年)閏4月、父の清司に代わって、正規の与力として取り立てられることになりました。
 1850年(嘉永3年)7月、西浦賀の灯明堂付近の館浦に造られた玉薬製造所が爆発炎上してしまい、新鋭の蒼隼丸など多くの軍船を焼失してしまいました。
三浦半島観光地図:横須賀市西浦賀・灯明堂
 玉薬造船所の責任者だったため、監督不行き届きとして、押し込め(自宅謹慎)処分となってしまいます。

ペリー来航

ペリー提督
ペリー提督
 1853年(嘉永6年)6月3日、ペリーに率いられたアメリカ軍艦が来航しました。黒船来航は突然のことではなく、オランダから事前に知らされていました。
 応接掛与力として、通訳の堀達之助とともに最初に黒船に乗り込んで交渉にあたりました。しかし、アメリカ側の今までにない強い態度に、「自分は浦賀奉行所の副奉行だ、明日は奉行が訪れる」とウソをつきました。翌日、義弟で同僚の香山栄左衛門を奉行と偽り、黒船に送り込んで交渉に当たらせました。
 6月9日、ペリー一行は久里浜へ上陸し、アメリカ大統領からの国書を日本に手渡しました。
 三郎助や香山栄左衛門らは黒船に招待され、蒸気機関や大砲、ピストルなどを見せられました。
 ペリーに同行していたウイリアムズは、この時の三郎助の様子を密偵のようだったと酷評しています。頑固で気難しい役人で、何でも覗き回っては、気になることを根掘り葉掘り調べていたそうです。

長崎海軍伝習所

 1855年(安政2年)、幕府が新設した長崎海軍伝習所の第一回生として入所し、本格的に造船学・機関学・航海術を学びました。近代海軍の先駆者として指導的な働きをすることになります。
 勝海舟とは長崎海軍伝習所の同期ですが、仲が悪かったと言われています。
 そして、洋式帆船「鵬翔丸」で帰郷しました。
 1859年(安政6年)、浦賀の長川を塞き止めて日本初の乾ドックを建設しました。現在はその場所に、浦賀ドックが造られています。ここで遣米使節に随行する咸臨丸の修理を行いました。

文人として

大衆帰本塚の碑
大衆帰本塚の碑
 幼少期から和漢を学び、漢詩、和歌、俳諧の道に通じていました。
 特に俳諧では木鶏(もっけい)の名前で知られており、幕末の浦賀俳壇の中心的存在でした。
 函館で最期を迎えた三郎助は、死に対する美学も強かったようです。彼の和歌には、「うつせみの、かりのころもを、ぬぎすてて、名をや残さむ、千代ヶ岡辺に」を残しています。
 戊辰戦争の江戸脱出の際には、「乙鳥や、翌日はときはの、国の春」の句を呼んでいます。「翌日」は「あす」と読み、「ときは」は「常盤」のことを指します。
 明治2年(1869年)3月、箱館旧幕府軍追討令が新政府軍より下された事を知った榎本ら箱館政権幹部らは、3月14日(4月25日)に咬菜園といわれる箱館の名高い庭園で別盃の宴をおこないました。その際、2つ句を作り、それが辞世の句となりました。
 「ほととぎす、われも血を吐く、思い哉」
 「われもまた、死士と呼ばれん、白牡丹」

函館を最期に地と決めて

中島三郎助
中島三郎助
 1869年(明治2年)5月15日、新政府軍は函館市内を鎮圧し、榎本武揚を中心とする幕府軍が立てこもる五稜郭への侵攻が開始されようとしていました。
 五稜郭の最前線に位置する千代ヶ岡台場には、浦賀奉行所与力の中島三郎助を守将とする浦賀隊と、額兵隊が守っていました。浦賀隊のメンバーは、三郎助と同じ志を持った浦賀奉行所の若い与力や同心が中心となっていました。
 4月4日に妻・すずに贈られた手紙には、浦賀隊メンバー13人の名前が書かれていました。その中に、息子の恒太郎と英次郎(ふさじろう)、さらに幕府軍を支援していたフランス人のマルニイルの名前もありました。
 5月15日、榎本軍から千代ヶ岡台場へ副総裁・松平太郎が使者として訪れました。「すみやかに営を焼き、五稜郭に来、ともに守らん」と三郎助を説得しましたが、「吾はこの地を墳墓に定め候」と涙を浮かべながらかたくなに拒否し、千代ヶ岡に残りました。すでに死に場所を決めていたとも考えられます。

実は降伏をすすめていた

 「史談速記録」によれば、軍議が開かれたときに恭順を訴えたのは中島でした。
 これまで十分に尽くしてきたので、この辺で良いだろう。榎本軍には若い人も多く、まだ2000人もいるんだから、榎本や大鳥ら幹部たちは軍門に降伏して皇裁を仰ぎ、外の者のために謝罪するのがいいだろうと訴えました。
 すでに自分は死を覚悟していましたが、若い世代のために軍議では恭順を主張していました。この軍議は、函館を奪われた後の5月12日だったと考えられています。

三郎助親子の最期

 5月16日明け方、新政府軍による千代ヶ岡台場攻撃が開始されました。
 幕府軍艦・神速の乗組員だった内藤清孝が記した「蝦夷事情乗風日誌」に、戦いの様子が詳細に記されています。
 午前2時、戦いの火ぶたが切って落とされました。新政府軍は薩摩藩を先陣とした約300人。この戦いによって、中島三郎助は胸を撃たれて堀ノ内で戦死し、長男の恒太郎は刀を挙げながら敵陣へ切り込み、次男の英次郎は胸と腹を撃たれ大手前で戦死しました。
 浦賀隊のメンバーは一人も陣を離れることなく勇敢に戦ったことは、のちに大きく評価されました。しかし、中島父子のほかにも、朝夷三郎、近藤彦吉、福西周太郎の10代の若者たち、三郎助を恩人と慕って函館まで来た柴田伸助が犠牲になりました。
 戦いは1時間あまりで終わりましたが、浦賀隊にとっては大きな犠牲を強いられる戦いとなりました。
 前年に京都の鳥羽伏見で始まった戊辰戦争は、こうして最後の戦いに幕を閉じました。

お墓は東林寺に

 1868年(慶応4年)8月、8隻の軍艦で榎本らと江戸を脱走してから2ヶ月後、岩手県の宮古から妻・すず宛に手紙を書いています。そこには、自分と息子の恒太郎・英次郎らが万が一にも討ち死にした時は、浦賀のお寺に墓を立て、どこで戦死したのかを刻んで欲しいと、墓石の絵まで添えて記されてありました。
 江戸を出る際、生きて浦賀に帰ることはないと覚悟していたようですが、仲間たちの戦士の報告を聞くたびに、その意思は固くなっていったようです。
 また、三浦大助義明に心酔していたところもあったので、自陣で潔く最期を迎えるのが武士としての生きざまだと思っていたようです。
人物事典:三浦大介義明
 中島親子が生涯を終えた函館市中島町には、終焉の地を示す石碑が立っています。毎年5月、碑前祭が行われています。
 墓は東浦賀の東林寺にあります。

略年表

年代 数え年 事象
1821年(文政4年) 1歳 中島清司永豊(きよしながとよ)の次男として生まれる
1829年(文政12年) 9歳 11月、母(樋田仲右衛門(といたちゅうえもん)の娘)と離別
1831年(天保2年) 11歳 1月、文政10年に入門していた宝蔵院高田流槍術目録を取得
1835年(天保6年) 15歳 7月、浦賀奉行所与力見習いになります
1837年(天保8年) 17歳 6月、モリソン号事件が発生、観音崎台場詰
西御丸一番組徒岡田定十郎(清司永豊の弟)の娘すず(14歳)と結婚(16歳)
1838年(天保9年) 18歳 3月、浦賀・月番勤務
6月、天然理心流・剣術目録取得(天保5年〜)
9月、田付流・砲術目録取得(天保2年〜)
1839年(天保10年) 19歳 3月、三崎役宅勤務
8月、荻野流・砲術目録取得(天保5年〜)
1841年(天保12年) 21歳 4月〜9月、番所勤務
北辰一刀流剣術入門
1842年(天保13年) 22歳 8月、観音崎台場詰、台場を川越藩に引き渡し
1843年(天保14年) 23歳 4月、鳥ヶ崎台場詰・主席
集最流砲術入門
1844年(弘化元年) 24歳 1月(天保15年)、北辰一刀流・剣術目録(天保12年〜)
3月、浦賀・月番勤務
8月、御備場(おそなえば)の大砲の仕掛台についての研究を命じられる
12月、荻野流・砲術免許皆伝
12月、集最流・砲術目録取得(天保14年〜)
1845年(弘化2年) 25歳 3月、マンハッタン号来航
5月、浦賀で大砲制作
7月、浦賀・月番勤務
1846年(弘化3年) 26歳 閏5月、ビッドル率いるアメリカの東インド艦隊が来航、中島三郎助が野比沖で警備
10月、高島流・砲術皆伝
1847年(弘化4年) 27歳 9月、非常時に奉行所付を命じられる
1848年(嘉永元年) 28歳 1月、長男・恒太郎(つねたろう)が誕生
7月、格別出精で5人扶持を受ける
1849年(嘉永2年) 29歳 4月、吟味掛となる
閏4月、イギリス・マリーナ号来航、三郎助は船大工を連れて船内の実測を行う
5月、江戸在勤
6月、正式な与力職となる
1850年(嘉永3年) 30歳 6月、鉄砲製薬掛となる
1851年(嘉永4年) 31歳 4月、二男・英次郎(ふさじろう)が誕生

略家系図

                                                 








































































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