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東郷平八郎


鹿児島に生まれ、イギリスへ留学

大久保利通
大久保利通
 東郷平八郎は、1847年(弘化4年)12月22日、鹿児島県の加治屋町で生まれました。鍛冶屋町は、西郷隆盛、西郷従道(さいごうつぐみち)兄弟、大久保利通など、明治時代の偉人が多く生まれた土地です。
 名は仲五郎、14歳の時に元服し、平八郎実良と名乗りました。ほとんど知られていませんが、薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して、阿波沖海戦、箱館戦争、宮古湾海戦に戦っています。
 1871年(明治4年)、東郷はイギリス留学の命を受け官費留学しています。当初は、英国海軍兵学校に入る予定でしたが入学を許されず、商船学校にて学びました。
 1878年(明治11年)、7年間に及ぶ留学を終えて帰国しました。この7年間の留学がの経験が、後に艦長、提督として活躍するために貴重な経験となりました。

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日清戦争で高陞号を撃沈

東郷平八郎
東郷平八郎
 帰国後、天城副長、大和艦長などを経て、1886年(明治19年)、大佐に昇進します。しかし、この頃から、体調が優れずに転地療養を繰り返していました。
 1894年(明治27年)、日清戦争で浪速艦長として、豊島沖(ほうとうおき)で清兵を満載したイギリス国の高陞号(こうしょうごう)を撃沈します。その後も、黄海海戦、威海衛海戦で活躍します。
 高陞号撃沈事件に際して、イギリス国は日本に対して激しい非難をします。しかし、東郷のとった処置は、当時の国際法にかなったものとして、イギリス国の国際法学者が認めました。それ以来、東郷の沈着冷静な判断力が、世界に評価されるようになりました。

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連合艦隊司令長官に就任

 日清戦争後、常備艦隊司令長官、海軍大学校長、佐世保鎮守府司令長官、舞鶴鎮守府司令長官を経て、1903年(明治36年)、連合艦隊司令長官に親補されます。そして、翌年の日露戦争を迎えることとなります。
 東郷を長官に抜擢したのは、当時の海軍大臣・山本権兵衛です。当時の常備艦隊司令長官は、日高壮之丞で、戦時には常備艦隊司令長官が連合艦隊司令長官を兼任するのが常でした。しかし、山本権兵衛は、東郷の資質を見抜き、連合艦隊司令長官に抜擢しました。日本海海戦での勝利の一因は、山本権兵衛による山本人事の妙にあったとも考えられます。
 明治天皇は、なぜ東郷を連合艦隊司令長官にしたのかと問い、山本権兵衛は「東郷は運の良い男でありますから」と答えたといいます。

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Z旗が翻る

三笠
三笠
 1905年(明治38年)5月27日午後1時55分、東郷はロシアのバルチック艦隊が3列縦隊になって進んでくるのを確認しました。
 旗艦三笠のマストには、「皇国ノ興廃此ノ一戦に在リ、各員一層奮励努力セヨ」の意味のZ旗が翻りました。日本、ロシア、両国間の興亡を賭けた一戦が始まろうとしていました。

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日本海海戦

日本海海戦
日本海海戦
 対馬海峡に現れた時、バルチック艦隊は、戦艦8隻、巡洋艦10隻、海防艦3隻、駆逐艦9隻、特務艦6隻、病院船2隻の合計38隻でした。
 東郷連合艦隊は、5月27日、5月28日の両日の海戦で、戦艦6隻、巡洋艦5隻、海防艦1隻、駆逐艦4隻、特務艦3隻を撃沈しました。その他の艦も武装解除し、ウラジオストックに辿り着いたロシア船籍の軍艦はわずか2隻のみでした。
 日本海海戦での丁字戦法(敵前回頭戦法、トウゴウ・ターン)により、日本を勝利に導いた世界的な名提督と評価されました。日露戦争の英雄として乃木希典と並び称されるようになりました。

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講和条約締結

 ロシアバルチック艦隊は文字通り壊滅し、日本側の損害は水雷艇を3隻失ったにすぎませんでした。まさに日本側の圧勝となりました。
 この勝利をきっかけとして、アメリカの仲介により日露間に講和条約が結ばれました。
 英雄となった東郷平八郎は、軍令部長、軍事参議官を経て、1913年(大正2年)、元帥府に列せられました。また、東宮御学問所総裁も務めました。
 その後も、海軍の長老として、長く内外に大きな影響力を及ぼしました。

88歳で死亡

東郷平八郎
東郷平八郎
 1934年(昭和9年)5月30日、喉頭ガンのため、88歳で波乱に満ちた生涯を閉じました。生前の功績に対して、従一位に昇任し、国葬を賜りました。

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お墓は多磨霊園にあります

 東郷平八郎のお墓は、東京都府中市多磨町にある多磨霊園にあります。
 偶然なのでしょうか、隣り合わせに太平洋戦争当時の連合艦隊司令長官・山本五十六、古賀峯一のお墓もあります。
 多磨霊園には、他にも江戸川乱歩、北原白秋、三島由紀夫、向田邦子、与謝野晶子、吉川英治、新渡戸稲造、児玉源太郎、西園寺公望、西郷従道、ゾルゲなど、実にたくさんの有名人のお墓があります。
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記念艦三笠と東郷平八郎の像は軍港都市横須賀のシンボル

東郷平八郎像
東郷平八郎銅像
 横須賀市稲岡町にある三笠公園内に、記念艦三笠と、東郷平八郎のブロンズ像があります。
 かつては軍港都市だった横須賀のシンボルとして、市民をはじめ国内各地の人々が訪れる観光名所となっています。

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三浦半島の歴史:横須賀市稲岡町・記念艦三笠

日露戦争を戦った提督

 1921年(大正10年)、ワシントン軍縮会議で、三笠は記念艦として保存することが認められました。1926年(大正15年)、現在の地、白浜海岸に設置されました。
 その三笠を連合艦隊旗艦として、日露戦争を戦った提督が、東郷平八郎です。

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