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灯明崎と呼ばれている海に突き出た丘にあります。
1648年(慶安元年)、江戸幕府の命令で石川重勝・能勢頼隆らが築造したと伝えられています。当初は勘定奉行の所管で、1691年(元禄4年)〜1872年(明治5年)まで浦賀の干鰯問屋が管理していました。
1989年に、高さ1.8m、幅3.6m四方の石垣上に、木造二階建て日本式の灯明堂が復元されました。
1階は番小屋で、2階は四方を紙張りの障子に金網を巡らし、その中に直径36cm、深さ120cmの銅製の灯明皿を置き、菜種油を使用して海上を照らしました。その光は7kmにも届いたといわれています。当時の夜は、電気などなかったので小さな光も遠くまで見えたんですね。 |
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西浦賀の海岸の先端にあります。ここってバスとか走ってないんですか?車もないので、浦賀駅から歩いて行くと、どえりゃ〜遠いんですよ(T_T)。電動アシスト自転車が欲しいなぁ〜。でも家が海に近いから、すぐに錆びてボロボロになっちゃうんだよなぁ(T_T)
夜中に出入りする船の目印になるようにと、1648年(慶安元年)に建てられました。現在でいうところの、灯台ですね。
のち、東浦賀の干鰯問屋(ほしかどんや)たちが、灯明堂の係りを任されました。 |
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灯明崎の付け根に、1849年(嘉永2年)、当時の浦賀奉行・浅野長祚(あさのながよし)が自らの筆で建立した碑があります。
碑文によると、ここから多くの人骨が発見され、1556年(弘治2年)3月、安房から攻め入った佐貫城主・里見義弘と小田原北条氏との戦いの戦死者のものであろうと記されています。ところが、沖を行く船の水没者を埋葬したとも、浦賀奉行所の処刑者の者とも伝えられています。実際のところは不明です。今でもわずかな人骨が残されたまま埋まっているといわれています。
また、奉行所から灯明崎への道筋には、罪人が娑婆への別れを告げたと伝える『見返り橋』なるものがあったそうです。 |
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