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浦賀奉行所


浦賀奉行所

バス停浦賀病院前下車 徒歩5分
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浦賀奉行所
浦賀奉行所

 1720年(享保5年)、伊豆下田の下田奉行所から浦賀に移され、浦賀奉行所となりました。表向きの理由は、下田が港として不適当であるとされていましたが、実は享保の改革の一環で、江戸の人口増大に伴う江戸流入の商品流通を掌握するため、江戸に近く港も広い浦賀港に移されたと考えられています。浦賀湊は天然の良港で、数百艘の船が帆を下ろすことができました。
 下田奉行堀隠岐守をはじめ、下田奉行所に付属する一切の施設、役人、回船問屋の人々まで浦賀に移り住みました。浦賀の町は1000戸以上にも達し、相模国では小田原に次ぐ戸数になりました。
 奉行は初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。
 業務内容は、船の積み荷の検査(船改め)、海の関所、三浦半島の天領の支配、沿岸警備、海難救助、地方行政、警察、裁判所などです。
 奉行所の大きさは、東西270m、南北216m、敷坪1800坪で、奉行所や奉行のお家、長屋、砲術稽古場などがありました。奉行所前の海岸には番所が置かれ、当時105軒あった回船問屋たちが奉行の指揮下で交代で船の積み荷の検査を行っていました。
 文化・文政期(19世紀初頭)から、外国船が来航すると海防の仕事も加わり、忙しくなってきました。海防の指揮や監督、外交交渉の窓口として、浦賀奉行所の重要性が増大し、地位も長崎奉行の上席に昇格しました。
 蛮社の獄の発端となった1837年(天保8年)、日本人の漂流民を送還に来た米船モリソン号を砲撃したのも、浦賀奉行です。
 1868年(慶応4年)、幕府滅亡により廃止されました。この直前には、浦賀を中心に「ええじゃないか」運動も起こりました。
 現在は、住友重機の社宅になっており、奉行所正面に架けられていた「石橋」と、周囲の石垣ぐらいしか残っていません。
三浦半島観光地図:横須賀市西浦賀・浦賀奉行所の写真

写真撮影:----年--月--日

浦賀奉行所

バス停浦賀病院前下車 徒歩5分
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ペリー来航
ペリー来航

 江戸幕府は、地方の重要な場所に色々な奉行を置いて支配を行いました。そのひとつが浦賀奉行です。
 江戸時代の後半になると、鎖国中の日本の近くに外国船が来るようになり、世の中が騒がしくなってきました。これらに対して、浦賀奉行が中心となって江戸湾を守るようになりました。
 東浦賀では、おもに干鰯問屋をはじめとする商人の家が続いていました。
 それに対して西浦賀は、船改めをする番所、奉行の役所、その配下の与力や同心の住む与力・同心町が並んでいました。

写真撮影:----年--月--日

番所跡

バス停浦賀病院前下車 徒歩5分
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 三方を塀で囲まれた1000平方メートルの敷地内に、番所を中心に、土蔵、腰掛け、諸廻船取次所、船蔵、下田問屋会所などが建ち、全面に217m余りの波止め場が設けられていたそうです。
 浦賀奉行所の業務機関として、昼夜を通じ江戸を出入りする船の船改めを行っていました。浦賀の廻船問屋が、与力・同心の指示により船に乗り込んで、その実務を担当しました。
 だいたいこのあたりなのかなーといった感じです。浦賀港に案内板が立っています。よこすか浦賀病院の正面あたり。
三浦半島観光地図:横須賀市西浦賀・浦賀港

 

写真撮影:----年--月--日

江戸幕府組織図

バス停浦賀病院前下車 徒歩5分
地図
将軍 大老(必要に応じて置かれた臨時職)        
  老中(政務総括) 大番頭(江戸城などの警備)    
  側用人(将軍の側近) 大目付(大名の監視)    
    小普請支配    
    江戸町奉行(江戸の行政・司法)    
    勘定奉行 郡代・代官
    行事奉行    
    関東郡代    
    普請奉行    
    京都町奉行    
    大阪町奉行    
    堺奉行    
    奈良奉行    
    山田奉行    
    駿府城代    
    日光奉行    
    下田奉行    
    浦賀奉行    
    長崎奉行    
    新潟奉行    
    佐渡奉行    
    函館奉行    
    外国奉行(幕末期のみ)    
           
  若年寄(老中の補佐) 書院番頭(将軍の護衛)    
    小姓組番頭(将軍の護衛)    
    新番頭    
    目付(旗本・御家人の監視)    
    船手頭    
           
  奏者番        
  寺社奉行(寺社の監視)        
  京都所司代(朝廷の監視・西国大名の監視)        
  大阪城代(西国大名の監視)        
写真撮影:----年--月--日

浦賀奉行所の歴史

バス停浦賀病院前下車 徒歩5分
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1720年(享保5年) 浦賀番所が置かれ、掘利雄(ほりとしお)が初代奉行となります。翌年から船改めを始めます
1804年(文化元年) 番所の総修理が終わる。与力・同心たちは、初めて砲術の稽古をするようになる。
1808年(文化5年) 浦賀奉行岩本正倫(いわもとまさみち)と幕府の鉄砲方の役人が、お台場を造る場所として観音崎・浦賀・城ヶ島を調査する。
1822年(文政5年) イギリス船が浦賀へ入る。
1833年(天保4年) 浦賀奉行大久保忠学(おおくぼただたか)が勝手に許可なく船に乗り、漁船で江戸湾を渡ったりすることを禁止する。
1837年(天保8年) アメリカ船モリソン号が、漂流した日本人7人を乗せて浦賀へ来る。
1843年(天保14年) 番所に初めてオランダ語の通訳がおかれる。
1845年(弘化2年) アメリカ船メルカドル号が、漂流した漁民22人を浦賀へ送り届けた後、水と燃料を積んで出航する。
1846年(弘化3年) アメリカ艦隊長官ビッドルが、軍艦2隻を引き連れて浦賀へ来航し、貿易を求める。
1847年(弘化4年) 野比村に千駄崎台場を新しく造る。外国船が来た時は、浦賀奉行戸田氏栄(とだうじよし)が中心となって話し合うこととなる。
1848年(嘉永元年) 久里浜村で、西洋式鉄砲の試し撃ちを行う。浦賀湊の中に亀甲岸台場(きっこうぎしだいば)ができる。
1852年(嘉永5年) 江戸幕府は、浦賀奉行水野忠篤(みずのただあつ)に浦賀湊の中の警備と、外国船との話し合いだけをするように命じる。
1853年(嘉永6年) アメリカ東インド艦隊長官ペリーが、大統領の国書を持って浦賀沖へ来る。翌年も再び来航する。
1854年(安政元年) 大船を造ることが許され、東浦賀で鳳凰丸が造られる。
1857年(安政4年) 番所の与力・同心が、海軍の技術を学ぶために長崎へ行く。
1862年(文久2年) 番所での軍艦の船改めをやめる。
1867年(慶応3年) 浦賀奉行土方勝敬(ひじかたかつとし)が、浦賀に農兵を置くことを願い出て許される。
1872年(明治5年) 番所での船改めをやめる。
写真撮影:----年--月--日
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