1720年(享保5年) |
浦賀番所が置かれ、掘利雄(ほりとしお)が初代奉行となります。翌年から船改めを始めます |
1804年(文化元年) |
番所の総修理が終わる。与力・同心たちは、初めて砲術の稽古をするようになる。 |
1808年(文化5年) |
浦賀奉行岩本正倫(いわもとまさみち)と幕府の鉄砲方の役人が、お台場を造る場所として観音崎・浦賀・城ヶ島を調査する。 |
1822年(文政5年) |
イギリス船が浦賀へ入る。 |
1833年(天保4年) |
浦賀奉行大久保忠学(おおくぼただたか)が勝手に許可なく船に乗り、漁船で江戸湾を渡ったりすることを禁止する。 |
1837年(天保8年) |
アメリカ船モリソン号が、漂流した日本人7人を乗せて浦賀へ来る。 |
1843年(天保14年) |
番所に初めてオランダ語の通訳がおかれる。 |
1845年(弘化2年) |
アメリカ船メルカドル号が、漂流した漁民22人を浦賀へ送り届けた後、水と燃料を積んで出航する。 |
1846年(弘化3年) |
アメリカ艦隊長官ビッドルが、軍艦2隻を引き連れて浦賀へ来航し、貿易を求める。 |
1847年(弘化4年) |
野比村に千駄崎台場を新しく造る。外国船が来た時は、浦賀奉行戸田氏栄(とだうじよし)が中心となって話し合うこととなる。 |
1848年(嘉永元年) |
久里浜村で、西洋式鉄砲の試し撃ちを行う。浦賀湊の中に亀甲岸台場(きっこうぎしだいば)ができる。 |
1852年(嘉永5年) |
江戸幕府は、浦賀奉行水野忠篤(みずのただあつ)に浦賀湊の中の警備と、外国船との話し合いだけをするように命じる。 |
1853年(嘉永6年) |
アメリカ東インド艦隊長官ペリーが、大統領の国書を持って浦賀沖へ来る。翌年も再び来航する。 |
1854年(安政元年) |
大船を造ることが許され、東浦賀で鳳凰丸が造られる。 |
1857年(安政4年) |
番所の与力・同心が、海軍の技術を学ぶために長崎へ行く。 |
1862年(文久2年) |
番所での軍艦の船改めをやめる。 |
1867年(慶応3年) |
浦賀奉行土方勝敬(ひじかたかつとし)が、浦賀に農兵を置くことを願い出て許される。 |
1872年(明治5年) |
番所での船改めをやめる。 |