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1688(元禄元)年、浦賀が東西に分離したとき、西叶神社から遷したとも、1644(正保元)年に遷したとも伝えられています。祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと、応神天皇のこと)です。
拝殿と本殿があり、本殿は拝殿の左側から山を登った頂上にあります。
登り口には、歌人・福井貞斎の建てた松尾芭蕉の句碑があります。しかし、一説には芭蕉の師で、北村季吟の子の北村湖春の作ではないかともいわれています。
【にょきにょきと 帆ばしら寒き 入り江かな】
社殿の左側にある漱盤は、浦賀に寺小屋が設けられていたことを教えてくれる貴重な文化財です。そこには『龍峰門弟東西子供中』と刻まれているので、龍峰の寺小屋で学んでいた東西浦賀の子供たちが寄進したものであることがわかります。寄進は、1812(文化9)年9月となっています。
他にも、樹齢700年を誇るソテツ、社務所裏の身代わり弁財天、その奥には勝海舟ゆかりの井戸などがあります。
祭礼は毎年9月15日に行われています。 |
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この山一帯は、神奈川県指定の常緑広葉樹林です。かつては『神の山』として恐れられたといわれ、今でも山上には、タブノキ・ヤブツバキ・スダジイなどが緑をたたえています。
頂上には、創建800年を記念して、1981(昭和56)年に再建された小さな奥の院が建っています。
1860(万延元)年1月に咸臨丸がアメリカに向けて浦賀湊を出港する際、艦長・勝海舟が太平洋横断の無事を祈って断食したと伝えられています。明治になってから、この山の下に住む古老が「私が若い頃(万延の頃)、青白い侍が明神山から下りてきて、下で井戸水を飲んでは、また上がっていったんじゃよ。あっと驚く為五郎じゃよ。」と語ったといわれ、この侍が海舟ではないかということです。
かつて、源氏再興が成就したゆかりの古社にあやかろうと、叶神社に渡米成就を祈願したことはあるかもしれません。しかし、彼の自伝『氷川清話』では、そのころ熱病を患っていて、畳の上で犬死にするより軍艦の中で死ぬ方がましだと思い、出帆期日も迫ってきたこともあり、妻に「ちと、品川まで舟を見に行ってくる」と言い残して、そのまま咸臨丸に乗り込んだと語っています。
出帆間近に断食をして、体力を消耗するようなことはしないと思いますし、出帆前の忙しい時期に断食修行するのも少し疑問が残ります。
また、小田原北条氏の分国だった頃、この山は伊豆下田の領主が三崎城の出城として水軍の砦を構えていました。『明神山』の名は叶神社が勧請されてからの呼び名で、それ以前は『下田山』や『城山』と呼ばれていました。
城は東浦賀から鴨居に抜ける県道のため、わずかに切られてしまいましたが、鴨居にのびる半島と、明神崎にのびる小半島の2つに別れ、ややL字型をしており、明神山(標高55m)を本城としていたようです。
しかし、1923(大正12)年の関東大震災で明神崎が崩れ、さらに戦後、埋め立て用土として切り崩されて旧状はほとんどありません。
現在では、 山腹には、防衛上めぐらされた堀切、曲輪などを確認することが出来ます。奥の院が本丸、奥の院への石段途中から鴨居に抜ける山道は、かつての曲輪になります。
三浦半島の歴史:人物事典・勝海舟 |
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