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国道16号のアーチから三笠公園までの遊歩道です。幅広い自然石の歩道には水が流れていて、とても歩きやすいです。ところどころ、水の流れを渡れるところがあるので、足元に自信のない人は気をつけてね。
うみかぜの路(うみかぜのみち)、海と緑の10,000メートルプロムナード整備計画で、一番最初に着工された場所がこの三笠公園通りです。すべてが完成すると、JR横須賀駅から、観音崎公園まで続くことになります。もしかして、もう完成済み?
三浦半島の歴史:横須賀市東逸見町・JR横須賀駅
三浦半島の歴史:横須賀市鴨居・観音崎公園
三浦半島の歴史:横須賀市稲岡町・三笠公園 |
写真撮影:----年--月--日 |
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三笠公園通りの左側には、神奈川歯科大学や横須賀学院がありますが、このあたり一帯は、かつての海軍機関学校がありました。大正時代には芥川龍之介が教鞭をとったこともあります。
右側のビルが建ち並んでいる一帯は、以前は深い入り江になっており、汽船の発着所だった小川港がありました。1971年(昭和16年)、埋め立て工事が行われました。商工会議所の裏側には、三笠橋がありました。
三浦半島の歴史:人物事典・芥川龍之介 |
写真撮影:----年--月--日 |
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昭和59年9月、大型帆船日本丸が横須賀で誕生しました。
それを記念し、メインマストを中心に実船の3分の1スケールで再現したモニュメントです。
日本丸は、練習帆船として作られた船です。性能は以下の通りです。
帆装型式 |
4本マストバーク型 |
主要寸法 |
全長 |
110.09m |
垂直間長 |
86.00m |
型幅 |
13.80m |
型深 |
10.70m |
満載喫水 |
6.29m |
総トン数 |
2,570トン |
航海速力(機走時) |
13.2ノット |
主機関 |
1,500馬力ディーゼル機関2基 |
帆面積合計 |
2,760平方メートル |
帆枚数 |
横帆・縦帆 |
各18枚 |
マスト高(船底から) |
最大55.52m |
登場人員数 |
乗組員 |
70名 |
学生 |
120名 |
合計 |
190名 |
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写真撮影:----年--月--日 |
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若い女性のブロンズ像です。ちゃんと確認しなかったため、作者や作品名はわかりません。
だって、写真撮るのって、なんか照れ臭くて恥ずかしいじゃん(^^ゞ
とてもスタイルの良い女性のブロンズ像です。 |
写真撮影:----年--月--日 |
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昭和21年の春、茶木滋親子は小田原市郊外の小川のほとりを歩いていました。
幼い息子の義夫君が突然声をあげました。
「お父さん、メダカがいるよ!」
滋はすぐ小川を覗き込みましたが、メダカは一匹もいませんでした。
「おまえが大声をあげたから、ビックリして逃げたんだよ」
すると義夫君は、
「待ってれば来るよ。ここ、メダカの学校だもの」
昭和25年の秋、NHKから「春らしい明るい歌」の歌詞を頼まれた時、この時の会話を思い出し、童謡「めだかの学校」が生まれました。
作詞者の茶木滋は、明治43年1月5日、横須賀市汐入町6番地で生まれました。
汐入小学校、横須賀中学校、鎌倉中学校を経て、明治薬学専門学校に学び、薬剤師となりました。しかし中学時代から童話や童謡に興味を持ち、児童雑誌「赤い鳥」などに投稿していました。
ほかに、童謡「とても大きな月だから」、童話「くろねこミラック」などの作品があります。
作曲者の中田喜直は、大正12年8月1日、東京で生まれました。
有名な「早春賦」の作曲家、中田章を父に持ち、幼少時から音楽的に恵まれた環境の中で育ちました。やがて東京音楽学校ピアノ科を卒業しました。
「夏の思い出」、「かわいいかくれんぼ」、「雪のふるまちを」、「ちいさい秋みつけた」などの作品があります。
三浦半島の歴史:人物事典・茶木滋
三浦半島の歴史:人物事典・中田喜直
三浦半島の歴史:横須賀市汐入町史跡巡り・観光名所案内
身近な生き物図鑑:魚類図鑑・メダカ科の魚 |
写真撮影:----年--月--日 |
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細かいところに気を使っていますねー、灯台の形をした電話ボックスです。最近では携帯電話が普及したため、この電話ボックスも利用する人が減少しているかもしれません。
灯台の形をしていますが、灯台として機能しているのかどうかは不明です。夜になると、光源部分が光ったりするのかな? |
写真撮影:----年--月--日 |
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