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横須賀市不入斗町の史跡巡り・観光名所案内


横須賀市不入斗町の歴史

横須賀市不入斗町

 

 三浦半島の中央部に位置します。
 1丁目は学校と公園用地となっており、それ以外は住宅地となっています。

 南北朝時代から確認できる地名で、相模国三浦郡の不入斗郷になります。不入斗・不読入村とも記されています。
 応安3年2月27日の円覚寺文書目録では、「相模国不読入村」とあり、円覚寺に寄進された村ということがわかります。

 『役帳』では、小田原北条氏の玉縄衆間宮豊前守の所領役高として「買得 三拾貫文 元文殊坊知行 三浦 不入斗」とあります。半役被仰付衆で南条寄子たる幸田源左衛門の所領役高として「三拾貫百六十三文 不入斗」と記されています。
 天文7年5月25日北条家朱印状写では、「不入斗間宮分百姓中」と「不入斗幸田分百姓中」に充てたもので、大普請役を勤めるため本人足2人は鍬(くわ)・簀(すのこ)を持って小田原へ集まるように銘じています。『役帳』作成段階以来、この時期になっても、この地は間宮氏と幸田氏の知行に分かれていたことがわかります。
 天正18年卯月日の豊臣秀吉禁制は、「相模国不入斗郷西来寺」に充てて出されており、秀吉は小田原攻めに際してこの地を掌握しようとしていました。

 江戸時代、三浦郡の不入斗村でした。
 寛永10年は幕府領、元禄10年は旗本向井氏知行、幕末は幕府領でした。
 村高は、『元禄郷帳』、『天保郷帳』、『旧高旧領』でも223石余です。宝暦12年、金沢村馬継場の加助郷8ヶ村のうちのひとつに指定されています。
 『三浦古尋禄』では、家数36軒。
 『新編相模』では、江戸から16里余、家数36軒、東西16町・南北20町余。鎮守は蔵王権現(神明合社)で、祭礼は9月8日。寺院には浄土真宗西来寺、当山派修験蔵実院があり、西来寺の寺宝のうち元禄9年の銘がある梵鐘に西来寺の縁起が記されています。
 村の草分け・旧家に石井家と川島家があります。どちらも小田原北条氏の家来と伝えられています。

 明治元年、神奈川府を経て、神奈川県に所属します。
 『皇国地誌』では、税地は43町3反余、うち田15町3反余、畑12町9反余、山13町余、宅地2町余などとなっています。
 明治6年、西来寺に不入斗学舎を設置します。
 明治9年、戸数47、人口221、牛3、馬6。不入斗小学校があり、生徒数70、うち男子38、教員3。民業は農業44戸、女は農間に布を織るもの80人。
 明治22年、豊島村の大字、不入斗となりました。飛地は衣笠村の一部となりました。
 明治24年、戸数130、男320、女239。
 明治36年、豊島町の不入斗となりました。
 明治39年、横須賀町の不入斗となりました。
 明治40年、横須賀市の不入斗となりました。
 大正13年、不入斗町となりました。
 昭和24年、一部が坂本町に分かれました。
 昭和25年、一部が上町、佐野町に分かれました。汐入町、中里町、深田町、坂本町の一部が編入されました。
 昭和46年、一部が衣笠栄町、鶴が丘、平和台、汐見台に分かれました。

地名の由来

 

 不入斗、不読入とも書きました。
 地名の由来については、以下のような説があります。
 斗、計など、数えるの意味から、数え上げるほどもない不毛な地ということから。
 かつて貢租対象とならなかった土地のことから。
 『新編相模』では、「不入の地にして、往古国守を置れし頃、其貢租を免除せられし義なり」とあります。
 浸食谷の発達した台地に存在する立地から、入山瀬の転訛で渓口を意味する地名から。

 
  坂本町  
不入斗町 上町
鶴が丘 平和台 汐見台 佐野
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