横須賀市西浦賀 |
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浦賀奉行所がありました |
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西浦賀には、神社やお寺などたくさんの史跡があります。かつては浦賀奉行所が置かれたり、浦賀ドックができたりと、三浦半島の中でも、もっとも栄えていた町でした。
現在では特に大きな史跡や施設などは残されていませんが、昔の港町らしい風情は残されています。 |
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西叶神社(にしかのうじんじゃ) |
京急浦賀駅下車 徒歩10分
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祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと、応神天皇のこと、八幡信仰の神様)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、白山比媛大神(しらやまひめのみこと、菊理媛(くくりひめ)のこと、白山信仰の神様)。西浦賀の総鎮守。
1181年(養和元年)、京都高尾山神護寺の僧文覚上人が、源頼朝の旗揚げの際、源氏の再興を祈願して、石清水(いわしみず)八幡宮を勧請したことから始まりました。
1186年(文治2年)、平家滅亡により、その願いが叶ったことから『叶明神』の称号が与えられました。
上人の勧請した場所を『文覚畑』と呼び、神社の裏山の頂上にあり、ここに上人の草庵があったと伝えられています。
浦賀には、西叶神社と、東叶神社がありますが、東叶神社は西叶神社を勧請した神社です。ですので、本家は西叶神社。西が叶恭子様で、東は叶美香様といった感じでしょうか。
神社の縁起は、1793年(寛政5年)、浦賀奉行仙石政寅が、諸記録を探査してまとめたそうです。ところが、奉納されたこの縁起は、1837年(天保8年)の火事で焼失してしまいました。
1842年(天保13年)、社殿が再建され、当時のお金で3000両かかりました。
この社殿の扉や格天井、欄干などの彫刻は、幕末の名工後藤利兵衛の作です。本殿と幣殿は総檜造り、拝殿は総欅造りです。社殿下の2つの銅製の灯籠は、洗濯屋の人たちが寄進したものです。前記の江戸屋半五郎も、手洗石、水屋、灯籠の寄進に協力しています。縁起も浦賀奉行の浅野長祚が額面に写し1852年(嘉永5年)、再び奉納されました。
また、明治初期には西岸学校があり、1881年(明治14年)、明治天皇が観音崎砲台への行幸時ここで休憩しました。現在、明治天皇駐ヒツの碑が建っています。
このあたりには、現在でも大きな倉などが残っていて、江戸時代に回船問屋で賑わった町の様子をしのぶことができます。 |
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幕末の1867年(慶応3年)年秋、「ええじゃないか」とい言いながら踊りまくる世直し運動が、各地で発生しました。三河(現在の愛知)に端を発し(名古屋説もあります)、京都、大阪、駿府、江戸、会津、淡路などに波及して、1868年(明治元年)まで続けられました。
浦賀では、1867年(慶応3年)10月、西叶神社下の湖幡屋の砂糖樽から太神宮のお札が発見されたのに端を発し、浦賀のあちこちに札降りが相次いだそうです。
札降りのあった家は吉瑞(きちずい)とし、祝い酒やお赤飯などを、奉公人を始め往来の人々にまで振る舞ったので、遠方から乞食までもが集まったそうです。伊勢神宮など、有名な神社仏閣のお札が降ったのを豊作の兆しとして喜び、老若男女の区別なく「ええじゃないか」と言いながら、町を練り歩き、富豪の家に土足で躍り込み、酒や食事などの振る舞いを強要しました。
一方で、札降りのない家は信心が足りないと言われ、真冬でも裸となり、腰にしめ縄を着け、白布のはちまきをし、水を浴びて、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えつつ、神社仏閣に参拝しました。水を浴びせられた幼児が、数日後に死亡したという記録さえ残っています。
なかば強制的に、町の富豪に対し、富の分配を要求するもので、民衆の封建社会への抗議の現れといえます。しかし、結局はただの祭り事に終わってしまい、世直し行動には結びつきませんでした。
このように、人々の理性を失わせた乱舞が、民衆のゆがんだ生活の一端をかいま見ることができます。 |
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山号は延命山、宗派は曹洞宗、逗子海宝院末寺、本尊は延命地蔵菩薩。1500年(明応9年)、僧明海によって創建された真言宗のお寺で、1591年(天正19年)、本山海宝院三代一機直宗が中興開山となっています。
創建当時は真言宗でしたが、徳川家康が江戸入府後、三浦半島の大部分は天領となり代官長谷川七郎左右衛門長綱が支配することとなり、1590年(天正18年)、曹洞宗に改宗しました。
境内の観音堂には聖観音が祀られています。これは紺屋町の船頭が、紀州の熊野灘を航海中、海が荒れて海中から出てきたといわれています。昔は海からいろいろなものが出てきたんですね。そのため、海難救助の観音様として、三浦三十三観音の第十三番札所になりました。
寺に残る古文書の中には、町人からの借金の証文も多く、相当な財産を誇る寺であったようです。
また、江戸時代の画家酒井抱一が描いた大きな亀の絵馬が奉納されています。 酒井抱一は、姫路藩主の次男で、尾形光琳の画風を再興した人です。 |
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浦賀港を横断して、東岸と西岸とを結んでいます。
渡船の歴史は古く、江戸時代までさかのぼります。1878年(明治11年)年に宮下町など17の町が共同で始めたのをきっかけとして、1943年(昭和18年)年浦賀町と横須賀市が合併し市営となりました。現在は、「横須賀市道2073号線」として、市の委託で経営されています。
毎月第一・第三日曜日は定休日です。
発着場となりには、関東大震災の犠牲者を慰める慰霊碑があります。ちなみに、ここから灯明堂方面へ向かう道は、関東大震災で崩落した愛宕山の土砂によって作られています。 |
常福寺(じょうふくじ) |
京急浦賀駅下車 徒歩15分
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山号は放光山延寿院、宗派は浄土宗、鎌倉光明寺末寺、本尊は阿弥陀如来。
創建は文明年間(1469年〜1487年)で、鎌倉光明寺第六世順誉了恵大僧正の弟子円蓮社教誉上人によるそうです。本にはそう書いてあったんですが、なんて読むのかさっぱりわかんない(^^;)
1720年(享保5年)、浦賀奉行所が設置されて以来、奉行所の御用寺院(香華院)となりました。代々、浦賀奉行の勤番交代が行われました。明治維新となり奉行所が廃止された際、解散式も行っています。1862年(文久2年)9月、勝海舟が軍艦・幡龍丸の回収のため3日間宿泊しています。
現在の本堂は、藤沢の龍口寺のもので、1920年(大正9年)にここに移されました。
庫裏の奥には、享保年間(1716年〜1736年)当時の檀家で、浦賀の有名な回船問屋の気仙屋長七が私財を投じて完成させた庭園があります。愛宕山を借景とした築山式庭園だそうです。
本堂には、虫歯ふうじの『おさんの位牌』があります。でも本当に虫歯になったら歯医者に行った方がいいと思います。
墓地には、浦賀奉行所の与力か同心の、合原雄左衛門、佐々倉安左衛門らのお墓があります。
また、浦賀の遊郭(浦賀では洗濯屋と呼んでいました)の主人である江戸屋半五郎のお墓もあります。半五郎は、世の無常を悟り、遊女を解放し、三浦半島で布教をしていた浄土宗の徳本上人の弟子となり、深本と名乗り諸国霊場を巡ったという不思議な人です。 |
愛宕山公園(あたごやまこうえん) |
京急浦賀駅下車 徒歩15分
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1893年(明治26年)、中島三郎助の顕彰碑を作るため開園した横須賀市最古の公園です。この碑を作るために集まった人たちの話から、浦賀ドック株式会社が設立されました。
碑文は、函館五稜郭で戦った榎本武揚の作です。中島三郎助は、浦賀の人々に慕われてはいましたが、朝敵として戦死したため追悼もできず、何年も経ってから碑を建てました。
人物事典:中島三郎助 他にも園内には、咸臨丸出港の碑があります。これは、日米修好通商条約締結100周年を記念して、1960年(昭和35年)に作られました。咸臨丸艦長勝海舟を始め、福沢諭吉、ジョン万次郎らの乗組員の名が刻まれています。筆は時の外務大臣・藤山愛一郎氏によります。碑は舳先をイメージし、行き先のサンフランシスコを向いています。
陣屋山ともいい、江戸初期、三浦の代官長谷川七郎左衛門長綱の陣屋がありました。
毎年5月、咸臨丸まつりが行われます。 |
為朝神社(ためともじんじゃ) |
京急浦賀駅下車 徒歩20分
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祭神は源為朝。浜町の鎮守になっています。
創建は、文政期(1820年頃)で、1800年(寛政12年)浜町の漁民が海を漂流していた為朝の木造を拾い、地蔵堂に安置したといわれています。航海の守護神として、『疱瘡除け(ほうそうよけ)』の神様として信仰を集めています。
為朝は、保元の乱で父・為義とともに戦って敗れ、伊豆大島に流罪となりました。為朝は、弓の達人で、その強弓を恐れられ腕の筋を切られて大島に流され、流人生活の果て、許されることなく没しました。日本では古来より、このような悲劇の武将の怨念を恐れ、神として祀ることによって、逆に災いを転じて福をもたらすとされてきました。住民は、為朝を疫神として、疱瘡神とし、当時人々に恐れられていた疱瘡の病を、為朝の怨霊の力でなおしてもらおうと期待していたのです。
毎年6月15日には祭礼で『虎踊り』が行われます。 |
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伊豆下田から浦賀へ奉行所が移され、それと同時に浦賀に伝えられたと考えられています。虎頭は、全国880の神社のお札で作られています。野比の白髭神社、久里浜の天神社にも、虎踊りが伝えられています。
虎踊りの内容は、だいたいこんな感じです。
和藤内という少年が登場します(衣装や身のこなしが歌舞伎的で、近松門左衛門の『国姓爺合戦』が取り入れられています)。
中国風の服装の子供たち(唐子)が多数登場し踊ります。
大小2頭の虎が登場し、マリ遊びや逆立ちなどの曲芸をします。
和藤内が暴れる虎を叶明神の守札で取り押さえます。 |
寿光院(じゅこういん) |
京急浦賀駅下車 徒歩20分
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常福寺の隠居所として元和年間(1615年〜1624年)、第18世が隠棲のため建てられた境外仏堂。浄珠庵とも呼ばれていました。
墓地には首切り地蔵とも呼ばれる『三命地蔵』という石の地蔵と墓石が祀られています。1864年(元治元年)、伊豆から弁天丸という船が浦賀に着きました。弁天丸の水主(かこ)の松五郎・岩吉・忠蔵は、遊ぶ金ほしさに船の命ともいえるイカリの綱を盗んで売り、夜遊びに興じていました。しかし、すぐにバレてしまい、奉行所に捕らえられ、船にとってのイカリ綱を盗むことは、人命を奪うのと同じだとし、死罪を宣告されました。3人は後悔して、罪滅ぼしに「わいらをねんごろに葬ってくれりゃあ、首から上の病気なんざー何でも治してやるがな」といいました。船主の師崎屋はその願いを聞き入れ、「三命」と名付けお地蔵さんを彫り安置しました。以後、首から上の病気を治すと人々から信仰を集めています。この3人は、浦賀奉行所により、灯明堂のとなりの処刑場で処刑されたのではないでしょうか。
墓地には他に、咸臨丸の乗組員で浦賀奉行所同心浜口興右衛門英幹とその奥さん、会津藩士・小林栄三郎の母美都姫(みつひめ)のお墓があります。奉行諸関係者のお墓が多くあります。 |
千代ヶ崎砲台跡(ちよがさきほうだいあと) |
京急浦賀駅下車 徒歩60分
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灯明堂から、300メートルほど海岸沿いに南に歩いて、海に突き出た場所。
1848年(嘉永元年)、江戸幕府が江戸湾防備のために築造しました。
19世紀なると、アメリカは、中国との貿易をより積極的に推進するための中継地や、太平洋で活動する捕鯨船の寄港地を求めて、日本に開国を迫りました。1837年(天保8年)、モリソン号が来航、1846年(弘化3年)、アメリカ合衆国東印度艦隊司令官ビッドルが通商を求めて来航したりと、外国船の来航が多くなるにつれ、浦賀奉行所の所轄で海防のため多くの砲台(台場)が設置されました。ここもその内の一つ。 |
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