浦郷町の歴史
「うらのごう」ともいい、「浦之郷」とも書きました。
三浦半島の北東部で、長浦湾を臨みます。鉞切り遺跡(なたぎりいせき)、榎戸貝塚などの考古遺跡があります。
戦国時代、相模国三浦郡の浦之郷でした。
永正13年6月13日の相河半吾証文には、「浦之郷へ参りて自得寺さま頼申候へ共、かつてんなく候」とあります。相河半吾という人が浦之郷の自得寺に檀那として入れてくれるように依頼をしましたが断られてしまったので、榎戸の能永寺へ出かけたことが書かれています。
『役帳』には、小田原北条氏の玉縄衆朝倉右馬助の所領役高として「買得 百弐拾貫文 三浦 浦郷」とあります。辰増分32貫340文については「重而惣検知上、役可被仰付者也」とあります。朝倉右馬助寄進状が旧浦郷村良心寺に所蔵されていますが、未6月11日の日付のもので「能登守為後世、小寺家を被致建立候、依之拙者も其旨存候而、知行之内浦之郷ニ而、御堪忍分五貫八十文之処、寄進申候」とあり、朝倉能登守景隆の頃すでにこの地を支配しており、右馬助が受け継いだと考えられます。
天正13年と考えられる酉10月23日北条家朱印状案写は、京紺屋津田氏に紺屋役を出さない在所のひとつに「三浦浦之郷」を上げ、かたく命じて取るようにと記されています。
天正18年4月日の豊臣秀吉禁制が「相模国三浦内浦之郷竜真寺(良心寺)」に下されており、秀吉は小田原攻めの際にこの地を掌握しようとしていたことがわかります。
江戸時代〜明治22年は三浦郡の「浦之郷村」でした。
寛永10年は幕府領、元禄10年は上野前橋藩領、幕末は幕府領でした。
村高は、『元禄郷帳』では433石余、『天保郷帳』では739石余です。『旧高旧領』では736石余のうち、雷電社領2石、良心寺領15石、能永寺領3石、自得寺領3石でした。天正19年の徳川家康寄進状写には、「雷神 相模国三浦郡 浦之郷内 弐石」、「良心寺 相模国三浦郡 浦之郷内 拾五石」、「能永寺 相模国三浦郡 浦之郷内 三石之事」とあり、それぞれ寺社領の寄進を受けています。
村内は鉞切、日向、榎戸、深浦の4地区に分かれていました。
榎戸の湊と呼ばれる港は、『豆相海浜浦々図』によれば、湊口5町余・奥行15町程・深さ3丈程で「但浦郷 田浦長浦 右三ヶ浦入船にて諸廻船折節汐掛り致しシ候」とあり、所有船数は押送船5、猟船43、薪船2、もく船3の合計53艘、船役銭5貫768文、浜役銭22両銭872文、塩年貢銭10貫289文が課せられていました。
榎戸港は中世以来の港で、小田原北条氏家臣団玉縄衆の武将朝倉氏の支配下にあり、朝倉水軍の拠点でした。
江戸時代には相模の魚介類を逗子、田越川畔の五十集問屋池田屋に集め、逗子・沼間・船越・榎戸と馬の背に乗せて陸送し、榎戸湊の池田屋分店で待つ押送り人足・水夫たちによって翌朝までに江戸日本橋の魚河岸に送り込む押送りの港として栄えました。
浦之郷浦は、田戸浦・堀之内浦・大津浦・馬堀浦とともに五ヶ浦と呼ばれ、前面海域の独占的漁業権と四艘張船以外の船なら江戸品川前まで断りなく漁猟ができる特権を有する立浦でした。
しかし、長浦湾沖合の夏島・猿島を結ぶ間の内海は、イワシなどの漁獲量が多かったため、他浦・他国の漁船が入り込んできて係争が多かったです。享保12年、紀伊・和泉・三河・上総・安房の漁民との争いで、浦之郷村等立浦領民は、「百年程以来、江戸御内海走り水より品川前迄、海上十三里程の間、御領私領浦に不残相廻、五月より九・十月迄毎年夏漁仕来り候」と五ヶ浦の特権を申し立てて勝訴しており、こうした係争は明治時代まで繰り返されました。
『新編相模』では、江戸から13里、家数267軒、東西16町・南北28町、鎮守は雷電社、ほかに小名ごとにそれぞれ鎮守がありました。寺院には日蓮宗法福寺、浄土宗良心寺、正観寺、観音寺、正覚寺、臨済宗自得寺、独音寺、正禅寺、一向宗光竜寺、時宗能永寺など多数あります。村の中ほどに領主の陣屋、字追浜には船蔵がありました。
村内の本浦地区では農業と製塩、鉞切・深浦・榎戸地区では漁業か海運業に従事する者が多かったです。
入り江の多い浦之郷浦の勝景を、加藤山寿は「山腰ニハ雲々塞巒峰ニハ路ヲサシ挟ミ漁舟ハ江浜ニ帆ヲ卸シ、商船ハ洋ニ続、武州本牧ノ嶮岸ハ白壁ノコトク見レ、総房ノ山色ハ藍ノ此水ニ涵シ、漢地ノ西湖モカクヤランノ勝景ナリ」とたたえています。
文化11年、江戸の文人清水浜臣は、箱根旅行の途中に浦之郷で船遊びを楽しみ、「鳴虫も空ゆく月も笛の音も心もともにすめる夜半かな」と呼んでいます。
安政5年、旭松閣吉高隆という風流人が、この地の勝景の中から、夏島秋月、勝力(岬)帰帆、箱崎夜雨、吾妻(山)晴嵐、州口落雁、榎戸夕照、亀島暮雪、独園(寺)晩鐘と、浦郷八景を選び、各々に歌を添えて額にして深浦山上の観音寺に奉納しています。江戸時代のこうした景勝も、現在ではすべて失われてしまい、観音寺境内からの海の景観に面影をとどめている程度です。
明治元年、神奈川府を経て、神奈川県に所属します。
『皇国地誌』では、税地は361町3反余で、うち田40町8反余、畑64町余、山林240町9反余、塩田8反余となっています。戸数423、人口2274、馬5、100石積以上の荷船10艘、50石積以上7艘、押送船25艘、漁船205艘、伝馬船16艘の計263艘がありました。
地味は赤黒壌土で、ときに薄黒色の小砂を交え、稲作・麦作に適し、桑・茶の栽培には不適でした。水利が不便で、干害に苦しむことがありました。村内の一部には、蓮田が多くありました。
浦郷学校があり、教師3、生徒数142で、うち男子76。民業は男で農業112戸、商業18戸、漁業240戸、雑業27戸。女は農業132人、および農間に紡績・採薪するもの465人。物産は東京・横浜に輸送されました。
明治20年、夏島(当時は陸軍用地)の伊藤博文別荘で、伊藤の指揮のもとに金子堅太郎、伊東巳代治らが大日本帝国憲法の草案の起草を続けました。
憲法草案起草記念碑は、別荘跡から数百メートル北方の産業道路沿いに移転されました。旧知地下に標識が埋蔵され、正確な位置の証明となっています。
明治22年〜大正3年、三浦郡の自治体名となりました。浦之郷村、船越新田、田浦村、長浦村が合併し、「浦郷村」となりました。浦郷・船越・田浦・長浦の4大字を編成しました。
明治24年の戸数1047、男2823人、女2782人。
大正元年、航空技術研究委員会附属の機体格納庫1棟が浦郷に建設されました。
大正3年、町制施行して「田浦町」となり、村制時の4大字は田浦町の大字として継承されました。
昭和8年、横須賀市の大字の浦郷となりました。
昭和24年〜27年、浦郷町1丁目〜5丁目、追浜本町1丁目〜2丁目、追浜南町1丁目〜3丁目、追浜町1丁目〜3丁目、追浜東町1丁目〜3丁目、鷹取町1丁目〜2丁目、夏島町、船越町1丁目〜7丁目となりました。
昭和26年、横須賀市の町名で浦郷町となりました。
昭和52年、一部が船越町8丁目になりました。
地名の由来
「内
追浜東町 |
夏島町 |
|
|
浦郷町 |
|
船越町 |
|
箱崎町 |
|