鎌倉時代、三浦義明の三男大多和義久が守備していたお城。鐙摺の名は、源頼朝がこの城を訪れた際、道が狭くて馬の鐙(あぶみ)を摺(す)ったことに由来しているそうです。
この城のある小高い山は、1180年(治承4年)、伊豆で挙兵した源頼朝を応援すべく三浦義澄がここで旗を立て、小坪坂合戦を望見したことから『旗立山』とも呼ばれています。結局、頼朝の助太刀には間に合わず、由比ヶ浜で畠山重忠軍と小競り合いをしましたが、決着がつかず衣笠城に引き上げています。
鎌倉時代になると、義明の三男・大多和義久が居城とし、南にある森戸には義明の六男・杜戸(もりと)六郎重行(連)、東の長柄(ながえ)には三浦氏の有力な郎党・長江太郎義景に守らせ、三浦半島の入口を固めていたようです。
また、1513年(永正10年)、三浦道寸が、この山から小田原北条氏の様子を望見したことから『軍見山』とも呼ばれています。
場所は、葉山港のすぐ裏手、日影茶屋の向かいの25mほどの小高い山。『軍艦山』とも呼ばれているようです。誰の物とも知れない墓石がポツンと立っています。 |
写真撮影:2000年00月00日 |
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