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和田義盛


源頼朝と同年齢

和田義盛の里碑
和田義盛の里碑
 和田義盛が生まれたのは、1147年(久安3年)になります。生まれた月日はわかっていませんが、偶然にも源頼朝と同年生まれです。
 同い年ということで、源頼朝と和田義盛、親近感を深めるのに少なからず影響を与えたと思われます。
 和田義盛の通称は小太郎や、太郎です。

三浦半島の歴史:三浦市初声町和田・和田義盛の里の碑和田義盛の里
三浦半島の歴史:人物事典・源頼朝

三浦氏長男ですが、三浦氏を継げなかった

 和田義盛の父は、三浦介義明の長男、杉本太郎義宗です。和田義盛が生まれたのは、杉本義宗が23歳のとき、母は駿河国黄瀬川の遊君で玉といいます。
 和田義盛は三浦氏長男の系統ですが、三浦氏の惣領とはなれませんでした。原因のひとつには、母親の出自にあったと考えられます。

三浦半島の歴史:人物事典・三浦義明三浦義明
三浦半島の歴史:人物事典・杉本義宗

子沢山です

和田城址
和田城址
 1163年(長寛元年)、父の杉本義宗が死去したこと以外は、1180年(治承4年)の源頼朝挙兵まで平穏な青壮年時代を過ごします。
 1172年(承安4年)には、長男の常盛が誕生します。
 1172年(承安4年)には、次男の義氏が誕生します。
 1176年(安元2年)には、三男の朝夷奈義秀が誕生します。
 1177年(治承元年)には、四男の義直が誕生します。
 1177年(治承元年)には、五男の義重が誕生します。
 1186年(文治2年)には、六男の義信が誕生します。
 1199年(正治元年)には、七男の秀盛が誕生します。
 このほか、女子3人が誕生しています。
 七男三女の大家族、ビックリだよぉ〜!!

三浦半島の歴史:三浦市初声町和田・和田城址和田城址

源頼朝に呼応して挙兵

 1180年(治承4年)8月、源頼朝の挙兵に応じるため、叔父の三浦義澄(当時54歳)に従い、一族とともに石橋山を目指して出陣しています。
 しかしその到着直前、丸子川辺で源頼朝の敗北を知り、やむなく引き返します。
 途中、由比ガ浜(物語上では小坪浜となっています)にて、平家方の畠山重忠軍と一戦を交えます。和田義盛は、叔父の三浦義澄を背後の鐙摺に控えさせ、自ら実質的に戦闘の指揮を執りました。

三浦半島の歴史:人物事典・三浦義澄
三浦半島の歴史:人物事典・畠山重忠

衣笠城は一夜で落ち千葉へ逃れる

 三浦氏の本拠地、衣笠城合戦では、要害の沼田城篭城を主張しましたが、老祖父の三浦義明に説得され、衣笠城での決戦が決定しました。和田義盛は衣笠城西木戸(搦め手)に陣を張りました。
 しかし、衣笠城は一夜にして落城し、その前夜に城を脱出して海路、安房国(現在の千葉県)に渡りました。
 同じく、渡航してきた源頼朝を同地に迎え、意気消沈する敗軍の中にあって一人、侍所別当を所望して、来るべき勝ち戦を期待し、みなを元気付けました。源頼朝もこれを受け入れ、常陸の佐竹氏追討を終え、鎌倉に帰還した11月17日に和田義盛は侍所別当となりました。

三浦半島の歴史:横須賀市衣笠町衣笠城跡

平家追討のため出兵

 1184年(元暦元年)8月、平家追討の源範頼に属して出陣し、中国を経て九州へ渡ります。
 しかし半年におよぶ出陣にも、これといった戦果がなく、兵糧は絶え、船舶はなく、兵士の指揮は落ちる一方。さらに、兵士の指揮を叱咤激励して軍規を引き締める立場の和田義盛までもが、鎌倉に帰りたいと言い出します。源範頼は、和田義盛らをなだめるように窮状を鎌倉に報じています。
 源頼朝は源範頼ら十二将士に懇切な書を遣わして励ましています。しかしなぜか、和田義盛にはその書は届かず、月余の後、西国御家人の交名を注進するように命じられています。
 西国追討を終えて鎌倉に帰還したのは、文治元年(1185年)10月20日ごろになります。

芦名浄楽寺で仏像を作成

浄楽寺国宝・阿弥陀三尊像
浄楽寺国宝・阿弥陀三尊像
 1189年(文治5年)3月20日、仏師の運慶に依頼して、芦名にある浄楽寺の阿弥陀三尊、不動明王、毘沙門天像を造ります。

三浦半島の歴史:横須賀市芦名浄楽寺

奥州藤原氏征伐に従う

 1189年(文治5年)7月〜9月、奥州藤原氏征伐に従います。
 阿津賀志山の戦いで、藤原国衡を討ちますが、畠山重忠と戦功相論。畠山重忠は和田義盛の功を是認。実際には、和田義盛の矢で深手を負った藤原国衡を、畠山重忠の家臣が討ち取ったらしい。
 藤原泰衡の首実験には、和田義盛と、畠山重忠が並んで加わっています。

2度の京都上洛、左衛門尉に任官

 1190年(建久元年)、1195年(建久6年)、2度の源頼朝の上洛では、先陣随兵として供をしました。
 最初の上洛の際、源頼朝の推挙によって左衛門尉に任官されています。

源頼朝が死去し、裁断権は合議制へ

源頼朝
源頼朝
 1199年(建久10年)正月13日、源頼朝が死去し、長男の源頼家(当時18歳)が跡を継ぎます。
 若い源頼家の幕政裁定に不安を感じた宿老たちは、13人の合議制を敷いて源頼家の裁断権を停止しました。
 源頼家はこれを怒り、側近の寵童5人に私的な特権を与えて、宿老たちに対抗しました。
 宿老13人の中にはもちろん和田義盛がおり、源頼家の側近には和田義盛の孫の和田朝盛がいました。梶原景時は宿老メンバーの一人ですが、源頼家の寵童たちに特権を与える件を奉行しています。また、寵童の一人に中野五郎は、宿老北条派の人物だったとの説もあります。

北条氏は権力を独占しようと動き出す

 源頼朝死去後、北条氏は有力御家人を次々と滅ぼしていきます。
 1200年(正治2年)には、梶原景時を滅ぼします。
 1203年(建仁3年)には、比企能員を滅ぼします。
 1204年(元久元年)には、2代将軍源頼家を虐殺します。
 1205年(元久2年)には、畠山重忠と、平賀朝雅を滅ぼします。そして、北条義時は、父の北条時政を追放して執権体制確率を目指していきます。
 このとき、北条氏にとっての最強の対抗者は和田義盛となりました。北条義時は、和田義盛を挑発し、彼を反逆者として陥れることによって、一挙に滅亡へ導こうとします。

三浦半島の歴史:人物事典・北条義時

和田義盛、挙兵へ

 1213年(建暦3年)4月27日、源実朝は側近の宮内兵衛尉公子を和田義盛宅に差し向けます。夜には、刑部丞藤原忠季を派遣して、和田義盛の存念をただしました。
 和田義盛は、将軍家には恨みはないが、北条義時の所為には我慢ならず、一族若輩の思いも同じで、今となっては抑えきれないと、決起の止むを得ない意を明らかにします。

和田の乱

白旗神社
白旗神社
 1213年(建暦3年)5月2日、和田義盛が挙兵しました。本来なら翌日の3日に挙兵の手はずとなっていましたが、原因は従弟の三浦義村・三浦胤義兄弟の裏切りにありました。軍勢はわずかに150騎にしかなりませんでした。
 軍勢を三方に分け、一手は幕府南門、二手は小町の北条義時邸、三手は大江広元低という配置となりました。合戦の状況は、和田義盛の三男朝夷奈三郎義秀の独壇場といった状態でしょうか。
 一夜明けた5月3日、戦況は思わしくありませんでした。午前2時ごろには、和田氏の親戚の横山時兼が数十人の親族を率いて腰越浦に着きます。そのほかにも援軍が到着し、軍兵は3000騎となりました。
 午前6時ごろには、曽我、中村、二宮、河村ら西相模の兵が武蔵大路、稲村ヶ崎に布陣します。和田義盛勢に味方するためにやってきましたが、形勢が思わしくなく、様子を見ていました。そこに北条義時方から誘いがかかり、ほとんどが寝返ってしまいます。
 午後6時ごろ、和田義直が伊具馬太郎盛重に討たれます。伊具氏は、北条泰時の弟の北条有時の系統になります。
 和田義盛は愛息の討ち死にに落胆し、戦意喪失してしまいます。そして江戸左衛門尉能範の家臣に討たれてしまいます。和田義盛、享年67歳。

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