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和田小太郎義盛は16歳の秋、父親の杉本義宗の死を境にして鎌倉の杉本城から和田に移り住みました。このあたりは、和田義盛の居館があったところになります。
当時、このあたりは三浦半島有数の穀倉地帯だったため、このあたりの領民を守り、水田を管理するにも地の利がありました。
和田義盛は、和田を生涯の根拠地と定め、合戦においてもこの地から多くの兵士が出陣し、兵糧が戦地へ送られました。
三浦半島の歴史:人物事典・和田義盛 |
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また和田館には、木曽義仲の妾、己御前が和田義盛に預けられ、ここで余生を送ったと伝えられています。
伝説や口伝でしかありませんが、三浦半島には巴御前にまつわる史跡が数ヶ所あります。
三浦半島の歴史:横須賀市岩戸・巴御前のお墓 |
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石碑の後、平塚農業高校初声分校の周囲には空掘や土塁を巡らし、中世としては大きな城跡だそうです。
もしかしたらここがかつての土塁の一部だったんじゃないかなーと思われる地形があったので、写真を撮っておきました。実際に土塁であったかどうかは不明です。
現在では和田館はその跡をほとんどとどめていませんが、この地を中心として、木戸脇、唐池、出口、赤羽根、矢作など、当時の城址だったと思われる地名が残されています。
矢作の部落は、当時、矢を作っていたので「矢作」という地名になったそうです。 |
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