三浦市の地形
三浦半島の最南端、宮田台地・三崎台地上に位置し、相模湾と東京湾に挟まれています。最南端には城ヶ島が浮かびます。
小網代湾や油壷湾を始めとするリアス式海岸が発達し、隆起を示す波食棚も見られます。関東大震災では南部は1m〜2mも隆起し、その後は毎年数mmのペースで沈降しています。
低地が少なく台地が多いのは、地形が隆起し続けていることも理由のひとつです。河川が少なく砂の供給量が少なく、地形が隆起していることから、海岸線は砂浜が少なく岩礁が多いです。
三浦市の歴史
1955年(昭和30年)、三浦郡三崎町、南下浦町、初声村が合併して誕生しました。昭和35年で人口3万9811人、2010年で人口48348人です。人口は減少傾向にあります。
平安時代後期以来、藤原氏摂関家領の三崎荘がありました。
戦国時代、三浦義同が荒井城を抑え、三浦半島を支配していました。永正13年7月、北条早雲に攻め滅ぼされると、小田原北条氏が三浦半島を支配しました。三崎城周辺、浦賀湾地域は、海賊衆と呼ばれた水軍が知行地を与えられ、領国の沿岸防衛に当たりました。
江戸時代、三崎村旧三崎城跡に三崎番所を設置し、舟奉行を常置し、江戸への航路を制するとともに沿岸防衛に当たりました。舟奉行の間宮氏と向井氏は、三浦半島内に知行地を与えられています。寛永9年〜元禄9年、三崎と走水に番所が設置されました。海上交通の要衝となっていました。江戸時代初期は幕府領、元禄年間頃から旗本領、その後は海防関連で有力大名の領地となりましたが、細かい部分まで含めると全国でもまれな目まぐるしく支配の変遷をたどっています。
三浦市の地名の由来
広域地名を採用し三浦市となりました。
古代から使われている地名で、東急本では「御浦郷」とあり訓は「美宇良」、高山寺本では「御津郷」、万葉集では「御宇良崎」、新編相模では「美宇羅」とあります。この当時から、場所は現在の三浦半島一帯でした。
「御津浦」と称していましたが、津(港のコト)としての重要性が減り「御浦」となりました。平安時代初期になると、古東海道が足柄峠を超えて相模を通り、三浦半島を経て房総へ抜けるルートだったので「御」が使われていましたが、この由来が忘れ去られ「三浦」になりました。
三浦市の産業
山岳地で高低があり平坦地が少なく、土は真土・野土に砂混じりで肥沃な土地ではありませんでした。農業のほか、養蚕・漁業を生業としていました。特産品は海産物で、三浦木綿と呼ばれる木綿も作られていました。
地形的特徴から、現在同様、農業と漁業が盛んでした。河川や低地が少ないため、水田は少なく畑が多いです。
昭和41年に三浦海岸駅、昭和50年に三崎口駅まで延伸され、開発が促進されました。昭和40年代から農業改良事業が行われ、三浦大根、三浦スイカ、キャベツ、レタス、ミカンなどの生産地として全国に知られるようになりました。シンボル産業の漁業は、神奈川県下最大の遠洋漁業基地です。
童謡『よい子の街』の作曲者の小村三千三の出身地であることから、「よい子の町三浦」を標榜しています。
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