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三浦市三崎町小網代史跡巡り・観光名所案内


三浦市三崎町小網代

史跡巡りと、観光名所案内

 

 三浦氏の本拠地ともいえる小網代の史跡を紹介します。三浦市の本拠地はバス停東岡の城山になります。
 諸説ありますが、油壺という地名は、新井城落城の際、主君を失った家臣たちが腹を切ったり、入水したりして、海が血で油のようになったので「油壺」と呼ばれるようになったといわれています。東洋一の水族館、油壺マリンパークもあります。なんとなく水族館らしからぬ観賞魚屋さんのような雰囲気がグッドです。


油壺湾
油壺湾

永昌寺(えいしょうじ)

バス停下車 徒歩5分
永昌寺

永昌寺(えいしょうじ)

 

 山号は西湖山、宗派は臨済宗、開基は三浦義同。
 もともと康安寺といい、荒廃していたのを、義同が、1504年(天明元年)、再建し、その法名から永昌寺と改名したと伝えられています。
 1782年(天明2年)に描かれた、義同父子の肖像画が残っています。三浦系図一巻もあったそうですが、焼失してしまったそうです。
 お寺の上の荒井の里には、子院の霊照院があります。三浦義意の妻の法名をとったものといわれ、堂内には霊照院の持仏であったという大日如来像が祀られています。墓地の中央に、彼女のものと伝わる卵塔のお墓がありますが、後世のもので本当のお墓かどうかは不明です。


海蔵寺(かいぞうじ)

バス停下車 徒歩5分
海蔵寺

海蔵寺(かいぞうじ)

 

 山号は網代山、宗派は曹洞宗。開山は逗子市沼間の海宝院の第二世・霊屋上人、1516年(永正13年)、三浦義同の開基と伝えられています。かつては、石段の下にありましたが、北条早雲との戦いで戦火に遭い、江戸時代末期に現在の場所に再建されました。
 かつては、寺宝として義同父子の肖像一幅がありました。
 本尊の十一面観音像は行基の作と伝えられ、義同の守護仏であったといわれています。三浦観音三十三カ所の32番。
 本堂正面には、飛首伝説を描いた絵馬が奉納されています。この伝説は、新井城落城の時、義同の子三浦義意はみずから首をかき切ると、その首が飛んで小田原の海岸の松の枝に掛かり、3年間もそのままでした。高僧を呼び供養しましたが、効果がありませんでした。そこで、義同ゆかりの小田原の総世寺の僧・忠室が「うつつとも 夢とも知らず ひとねむり 浮世のひまを あけぼのの空」と詠んで供養したところ、たちまちのうちに首は白骨になったというものです。
 毎年5月に新井浜で道寸祭が行われます。


白髭神社(しらひげじんじゃ)

バス停下車 徒歩5分
白髭神社

白髭神社(しらひげじんじゃ)

 

 祭神は中筒男命(なかつつのおのみこと、海上守護の神様)。社殿は、三浦義同が改築したと伝えられています。
 地元では、航海安全・大漁の神として、漁師さんの信仰を集めています。
 本殿前の細長い石は、カンカン石という石のイカリで、奉納されたものです。江戸時代、子網代港が江戸へ向かう船の寄港地、風待ち港として賑わった名残ですね。叩くと、カンカンと金属音を響かせるそうです。
 御神体の長安寿老人は、三浦七福神の一つ。


真光院(しんこういん)

バス停下車 徒歩5分
真光院

真光院(しんこういん)

 

 山号は荒城山、宗派は浄土宗、開山は1180年(治承4年)入阿上人によります。
 永正年間(1501年〜1521年)に、三浦義同父子の信仰を受け、一族の隆盛を祈願した三浦氏ゆかりのお寺。
 本堂には、法衣の胸に三浦氏の家紋をつけた義同父子の木像があります。衣冠束帯で、像高38cm、寄木造、玉眼入りの座像です。
 本堂脇の観音堂には、聖観音立像があります。これは、幕末に浦賀奉行所与力の中島三郎助が函館五稜郭に向かう折り、部下の佐々倉松太郎に頼んで、御浜御殿からここに移したものといわれています。像高54cm、寄木造、玉眼入りの像です。
人物事典:中島三郎助


なも田坂

バス停下車 徒歩5分
真光院

なも田坂

 

 なもうた坂とも言います。真光院横の狭い道を入った坂道。
 新井城が北条氏に攻められて危なくった時、三浦義同の道寸の側室が、逃げる途中のこの坂の下の小川に掛かる橋で死産し、みずからも自害したと伝えられています。
 坂の名前の由来は、近くの高橋さんという名主の通称からとも、「名向」がなまったなど諸説あります。


義士塚(ぎしづか)

バス停下車 徒歩5分
義士塚

義士塚(ぎしづか)

 

 ここの道は、油壺の旧道にあたり、新井城の外郭になります。北条早雲の家臣4人のお墓といわれています。ここには、以下のような話が伝えられています。
 1516年(永正13年)、北条方の武士たちは、三浦義意の武勇に恐れをなし、誰も立ち向かう者がいませんでした。しかし、勇敢にも義意めがけて躍り出た4人の武者がいました。結局、あっさり切り捨てられそうになったとき、義意の父・三浦義同が、「あいや待たれよ。敵ながらあっぱれなる振る舞い。」と声をかけ、見逃してやりました。
 それからまもなく新井城は落城し、4人の武者は義同・義意父子の戦死を知りました。
 時は流れてある夜のこと、4人の武者はここを訪れ、義同の義侠に報い、自害して果て、馬とともに葬られたといいます。


引橋

バス停下車 徒歩5分
引橋

引橋

 

 引橋とは、敵の侵入を防ぐため、水平に引くことのできた可動式の橋のことです。
 外の引橋は、現在陸橋になっている辺りで、峡谷になっており最も狭められたところで、外城の大手口にあたります。室町後期、三浦義同が北条早雲との戦いでこの橋を引いて防衛したといわれています。
 内の引橋は、現在の油壷マリンパーク近くの民宿「ひきはし」あたりにあり、三方が海に囲まれた最も狭いところに掛けられていました。その内側には、土塁が築かれていたといわれています。
 ちなみに外の引橋は、三崎高校近くにありました。


三浦霊場満願所

バス停下車 徒歩5分
三浦霊場満願所

三浦霊場満願所

 

 1977年(昭和52年)12月12日に開かれた14000平方メートルの聖地。
 弘法大師開札の四国八十八カ所、花山法皇、大和長谷寺の徳道上人が定めた西国三十三観音、西国三十三観音を真似た坂東三十三観音、さらにそれを真似た秩父三十四観音の全部が1日で巡拝できる場所です。

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