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黒船来航


井戸 石見守 弘道(いど いわみのかみ ひろみち)

????〜1855年
 ペリー来航時の浦賀奉行です。
 彼の生い立ちは、今のところはっきりした記録がなく、あまり詳しくわかっていません。
 1846(弘化3)年12月、西丸小姓(こしょう)組番士から徒組(かちがしら)へ、1847(弘化4)年8月に西丸目付になり、1848(嘉永元)年5月に目付になり、 勝手掛や海防掛を兼任しました。そして、1853(嘉永6)年4月28日に浦賀奉行になりました。その後、1853(嘉永6)年12月に幕府の大目付に出世し海防掛を兼任、1854(安政元)年7月に軍制改正用掛も命ぜられました。
 通称を『鉄太郎』といい、石見守に任じられ、禄高は3005石余を持っていました。
 戸田氏栄は1847(弘化4)年2月に浦賀奉行になりましたが、井戸弘道はペリー来航の約1ヶ月前に就任しました。
 黒船が浦賀に現れた1853(嘉永6)年6月3日、井戸弘道は在府浦賀奉行として江戸にいましたが、同日夜10時過ぎに報告を受け、江戸城で協議した上で、6月8日に浦賀へ帰任し、翌日、久里浜で国書を受理しました。
 この時、戸田氏栄が『皇帝の第一顧問』と称し主席全権に任じられ、井戸弘道はその補佐として接見しました。
 浦賀奉行の2人は、幕府の重臣を演じるため、大げさな陣容を整えました。陣容は、戸田氏栄は本家からの加勢を得て約300人、鉄砲4挺。井戸弘道は惣人数で100人、鉄砲は2挺。
 在職中の1855(安政2)年7月26日、没しました。お墓は東京都大田区の法養寺にあります。

香山 栄左衛門(かやま えいざえもん)

1821年〜1877年
 ペリー来航時に、浦賀奉行を演じた浦賀奉行所与力。
 彼の生い立ちははっきりとはしていませんが、西叶神社にある1880(明治13)年に建てられた『香山昭洞顕彰碑』によると、1821(文政4)年4月10日に遠州新居に生まれ、15才の時に浦賀奉行所与力・香山堅兵衛の養子となり、養父没後の1843(天保14)年に与力になっています。この間、岡田定十郎の三女きん子と結婚しています。きん子の姉すずは中島三郎助に嫁いでいるので、香山と中島は義兄弟となりました。
 香山は、ペリー側と一番接触を持っており、ペリー来航時の基本資料である『与力聞書』の中で、「北アメリカ合衆国の船で、使節の名は彼理(ペリー)、上官はブカナン(ブキャナン)である」ことや、大砲の具体的な数字、蒸気船は一昼夜で800里走ることができること、蒸気を使った陸上での交通機関は火輪車(蒸気車)と呼ばれていることなどが記されています。
 香山が老中に宛てた上申書には、ペリー来航翌日の6月4日、香山がニセ浦賀奉行として黒船に乗り込み交渉をしたが、今までに来た異国船とはまったく違う対応振りであったことを江戸詰の浦賀奉行井戸石見守に報告に行く形で始まっています。
 翌日、香山は浦賀に戻り、幕府からの国書受け取りの許可の報に接し、応接会場の準備〜出港まで、浦賀奉行所と黒船の間を駆け回り、アメリカ側からも高く信頼されていました。最初に応接方として黒船に乗り込んだ中島三郎助とは何かにつけて比較され、応接態度や物事への関心振りなど、様々な面で香山を高く評価しています。
 しかし、同僚から「やりすぎ」「目立ちすぎ」という批判の声が出始め、出港前日には、奉行所からの餞別の他、香山個人の餞別として鶏などを渡し、御礼に菓子、オーデコロンの空き瓶、酒、石鹸などをもらったことから、「すでにアメリカ側と内密のうちに交易を約束しているのでは」などという噂が広まってしまいました。
 奉行所では、香山に対する同僚の批判を考慮し、特別な恩賞も与えず、よく1853(嘉永7)年1月に再びペリーが来航したときには、応接方からもはずされてしまいました。ペリーやウィリアムズが「香山はどうした」と質問するほど、彼らの前に姿を見せることはありませんでした。
 1853(嘉永7)年4月、江戸城富士見宝蔵番へ転勤となり、1863(文久3)年、歩兵指図役の小十人、さらに大阪の台場の監督官をつとめ、1877(明治10)年その生涯を閉じました。

合原 猪三郎(ごうはら いさぶろう)

1827年〜1901年
 地味ですが出世した外交端の浦賀奉行所与力。
 彼の事績を伝える物はありませんが、墓石に刻まれた約300の文字からわずかにその経歴を知ることができます。
 合原家は代々浦賀奉行組与力をつとめる家柄で、猪三郎は1827(文政10)年2月24日、奉行所前の役宅で生まれました。実名は義適(よしまさ)といい、砲術家で知られる与力の合原操蔵は長兄です。
 ペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門、佐々倉桐太郎らとともに応接掛となって活躍し、神奈川条約締結後は、香山にかわり日本側の交渉役(スポークスマン)となっています。
 1854(嘉永7)年4月、伊豆下田港の開港のため再置された下田奉行所に移り、アメリカ総領事として着任したタウンセンド・ハリスとの折衝に手腕を発揮しました。
 やがて、外国奉行の属僚に転じて支配調役となり、1860(万延元)年、神奈川奉行支配組頭になり、開港場における広範な外交・貿易に関する処理に当たりました。さらに抜擢され、神奈川奉行並(石高1000石、役料500俵)となり、諸外国との難問解決に当たります。しかし、フランス士官が殺害される井土ヶ谷事件がおき、その折衝解決に大変苦慮しました。
 1863(文久3)年10月、江戸城二之丸留守居役となり、1864(元治元)年、目付に任じられ諸大夫となり伊勢守を称しました。1866(慶応2)年9月には外国奉行(石高2000石、役料1000俵、手当金300両)となりました。
 さらに寄合(よりあい)から陸軍奉行並を経て、1868(慶応4)年正月には大目付となり、3000石の大身に出世しました。このとき猪三郎42才、ペリー来航からわずか14年目のことでありました。まもなく病により辞任しますが、江戸幕府もほどなく終焉を迎えます。
維 新後、明治政府や僚友榎本武揚などから再三の要請にも関わらず、「二君に仕えず」として、東京本郷竜岡町(東京都文京区湯島)の邸にこもりました。1901(明治34)年4月1日、病のため死去しました。享年75才。お墓は、東京都豊島区染井霊園内にあります。

戸田 伊豆守 氏栄(とだ いずのかみ うじよし(ひで))

1799年〜1858年
戸田伊豆守氏栄
ペリー公園・戸田伊豆守胸像
 1853(嘉永6)年6月3日(新暦7月8日)、4隻の黒船が浦賀にやってきました。
『未上刻(1:00p.m.頃)、相模国城ヶ島沖合に、異国船四隻相見候』に始まる内容の注進を早船で江戸に送ったのが、当時の浦賀奉行戸田氏栄でした。
 1799(寛政11)年、美濃国(岐阜県)揖斐郡(いびぐん)深坂村西村に生まれ、幼名を寛十郎と言いました。
 1841(天保12)年、西丸小姓(こしょう)組から徒頭(かちがしら)に昇進、1842(天保13)年7月には使番(つかいばん)、1843(天保14)年2月には目付、同年9月には駿府町奉行、1847(弘化4)年1月には日光奉行、1847(弘化4年)2月に浦賀奉行となり、従五位下伊豆守に任じられました。
 ペリーの来航に際して、井戸石見守とともに幕府を代表して、アメリカ大統領フィルモアからの国書を、ペリー司令官から受け取りました。この時、大垣藩から小原鉄心の斡旋で、130人の武士を引率してペリーと接見し、大役を果たしました。
 国書受け取りに際して、アメリカ側は、「日本の委員は戸田伊豆守と井戸石見守で、前者は50才くらい、後者はそれよりも10〜15才くらい年上であろう。戸田の方はそのどでかい額には知慮を現し、端麗なる容貌には愛嬌を含み・・・略・・・2人はいずれも金銀の糸をもって作られた金襴仕立ての衣服を付けていた」とあります。
 1854(安政元)年6月に西丸留守番となり、1857(安政4)年2月に大阪町奉行に任じられ、1858(安政5年)8月21日任地で病没しました。60才でした。
 お墓は、岐阜県揖斐郡谷汲村の円立寺にあります。幕府の旗本として5000石の禄高をもっていました。

中島 三郎助(なかじま さぶろうすけ)

1821年〜1869年
中島三郎助
東林寺・お墓
 1821(文政4)年1月、浦賀奉行所の役宅で生まれました。名は中島三郎助永胤(ながたね)。江戸湾防備のため三浦半島に派遣されていた会津藩が、使命を終えて撤退が決まった年でした。
 父・清司永豊は浦賀奉行所の与力で、三郎助も14才になると与力見習として、奉行所に出仕し、1837年、モリソン号砲撃事件に関わり、以来、海防問題に強い関心を抱くようになりました。特に砲術に関しては、諸流派の免許皆伝となり、高島秋帆によってもたらされた洋式砲術にも手を伸ばし、大砲の製造から砲台の建設に至るまで、様々な知識を得ていきました。
 1846(弘化3)年閏5月、アメリカ東インド艦隊のビッドルに率いられた2隻の軍艦が江戸湾に来航し、軍艦の持つ威力を目の当たりにし、軍艦の必要性を強く感じるようになりました。
 このころから、幕府要人が頻繁に訪れるようになり、浦賀奉行所では三郎助らによって大砲の試射を披露し、彼の腕前は江戸でも高く評価されました。
 1847(弘化4)年、浦賀奉行が戸田氏栄・浅野中務に交代すると、海防の役割は一層強化され、軍艦造りも本格的な段階に入りました。しかし幕府は軍艦造りに反対の立場にあり、とりあえず日本の船に改良を加えた『蒼隼丸』を完成させ、三郎助らが船用に製造した大砲をのせ、軍艦らしき物としました。
 大砲の射撃・製造・火薬の調合などの技術が認められ、1849(嘉永2)年4月、父・清司に代わって、正規の与力となりました。
 翌年7月、灯明堂近くの館浦に造られた『玉薬製造所』が爆発炎上し、蒼隼丸をうしない、玉薬製造所の責任者であった三郎助は、監督不行届ということで押込(自宅謹慎)の処分を受けてしまいました。
 1853(嘉永6)年6月3日、ペリー艦隊が来航し、通訳の堀達之助とともに応接掛与力として最初に黒船に乗り込みました。アメリカ側の今までにない強い態度に「自分は浦賀奉行所の副奉行であるが、明日は奉行が来るであろう」とウソをつき、翌日、義弟であり同僚の香山栄左衛門を奉行として黒船に送り交渉させました。
 6月9日、ペリーらは久里浜へ上陸し、アメリカ大統領からの国書を日本側へ渡したあと、三郎助や香山らは黒船に招待され、蒸気機関・大砲・ピストルなどを見せられました。この時の三郎助の様子をウィリアムズは「頑固で気難しい役人であり、なんでものぞきまわり、目に付いたことを根掘り葉掘り調べる好感の持てない男」と記し酷評しています。
 この年の秋の大船建造令によって、日本で最初の洋式軍艦『鳳凰丸』をわずか半年余りで完成させました。
 一方、幼少の頃から和漢を学び、漢詩文・和歌・俳諧の道に通じ、特に俳諧では『木鶏(もっけい)の名で知られ、幕末の浦賀俳壇の中心的な存在でした。
 1868(慶応4)年8月、榎本武揚らとともに8隻の軍艦で蝦夷に向かいました。
 1869(明治2)年5月16日明け方前より、三郎助を主将とする浦賀隊と、額兵隊が守る千代ヶ岡台場への攻撃が始まりました。
 戦いの様子は、幕府軍艦神速(しんそく)の乗組員であった内藤清孝が記した『蝦夷事情乗風日記』によると「午前2時、戦いの火蓋は切って落とされた。敵は薩摩藩を先陣とした300人ほどであり、この戦いで中島三郎助は胸を打たれ堀之内で戦死、長男恒太郎は刀を上げながら敵陣へ切り込み、次男英次郎も胸と腹を打たれ大手前で戦死した」と記されています。この戦いで、浦賀隊のメンバーが一人も陣を離れることなく勇敢に戦ったことは、後に大きく評価されます。しかし、中島父子の他に、朝夷(あさいな)三郎・近藤彦吉・福西周太郎の十代の若い侍と、中島を恩人と慕って函館へ来た柴田伸助が犠牲になりました。
 実は、三郎助は、死を覚悟していましたが、軍議の場で榎本に降伏論を展開するなど、恭順派だったようです。
 中島親子が生涯を閉じた函館市中島町には、終焉地を示す石碑が建ち、毎年5月、この碑の前で碑前祭が行われています。お墓は、東浦賀の東林寺にあります。
 辞世の句「ほととぎす 我も血を吐く 思ひかな」

堀 達之助(ほり たつのすけ)

1823年〜1894年
 黒船来航時の日本側通訳として活躍しました。
 1823(文政6)年11月23日、長崎オランダ通詞の家の五男として生まれました。
 1845(弘化2)年、オランダ小通詞末席となり、父の跡を継ぎました。
 1848(嘉永元)年、漂着した捕鯨船員マクドナルドから、日本で初めて英語を学んだといわれています。
 1853(嘉永6)年6月3日、黒船が浦賀沖に現れたとき、浦賀奉行所与力の中島三郎助が、最初に旗艦サスケハナ号を訪れた際に同行したのが、通詞役の堀達之助でした。
 この時の通訳の仕事を通して、達之助の語学の才能がアメリカ人にも認められ、翌年の日米和親条約の和解(和訳)にも当たることになりました。
その後、伊豆の下田詰(づめ)となり、1855(安政5)年9月、ドイツ通商要求書簡独断没収の罪で入牢させられてしまいました。このとき、獄中で吉田松陰と文通を交わしていたことが知られています。
 1859(安政6)年12月に赦免され、幕府蕃書(ばんしょ、西洋の書物のこと)調所の対訳辞書編集主任として迎えられました。1860(万延元)年12月、筆記方も兼任。外国新聞の翻訳刊行に当たり、1862(文久2)年1月、『官板バタビヤ新聞』を発行しました。
 後、幕府開成所の教授を務め、維新後は北海道の函館裁判所参事席などを歴任。1872(明治5)年、長崎に帰り、名を『達五』と改めました。
 1894(明治27)年1月3日、72才没。長崎市鍛冶屋町の大恩寺に葬られています。

森山 栄之助(もりやま えいのすけ)

1820年〜????
 黒船来航時の日本側通訳として活躍しました。
 1820(文政3)年6月1日に生まれ、幼いころよりオランダ語を学ぶことが当たり前のように育てられました。それというのも、森山の家計は代々通詞(つうじ)の家計で、父・源左衛門は通詞としては最高位の大通詞になった人でもありました。
 1843(天保14)年3月、24才という若さで、長崎から浦賀奉行所に派遣されました。
 1845(弘化2)年3月、米国の捕鯨船マンハッタン号がたくさんの小舟に曳航されて浦賀に入ってきました。クーパー船長以下28人の乗組員が乗船していました。目的は、鳥島に漂着していた『幸宝丸』の水主(かこ)11人と、小笠原周辺を漂流していた『千寿丸』の水主11人を送り届けることでした。
 この時、浦賀奉行所で対応に当たったのが、奉行・土岐頼旨、与力・中島清司、通詞・森栄之助でした。
 しかし、マンハッタン号にはオランダ語のできる人がおらず、日本側の英語力といえば【諳厄利亜(あんげりあ)語林大成】という1冊の英和辞典を頼りにするしかありませんでした。しかもこの辞書は、オランダ人から発音を教えられたもので、実際の英語の発音とはかけ離れたものでした。
 クーパー船長の手記にも「彼は蘭語に通じ、英語も少々わかるが、もっとも長ずるのは手ざまであった」とあり、あまり優れたものではなかったようです。
 こうした経験から、英語の重要性を認識し、通じ仲間の堀達之助らと、1848(嘉永元)年に漂着したアメリカ人マクドナルドから本格的な英語教授を受け、ペリー来航の際、活躍するに至りました。

ヴィルヘルム・ハイネ

1827年〜1885年
 ペリー提督の久里浜上陸を描いた画家です。
 1827年1月30日、ドイツのドレスデンで生まれました。父のフェルディナンドは宮廷劇場の俳優をしていましたが、息子を同じ道に進ませず、レンガ積み職の仕事に就かせました。
 しかし、その後、ドレスデンの王立芸術学院に入学し、建築学を学びました。彼は絵画に対する興味を募らせ、劇場の舞台装置の技法や、装飾画を学びました。その結果、優れた成績が認められ3年間パリに留学することができました。しかし、1849年5月、ドイツのドレスデンが革命の波にのまれ、アメリカに亡命しました。
 1849年暮れにニューヨークに上陸しましたが、恵まれた職に就くこともできず、苦しい生活をしていました。しかし、幸運にも、考古学者のエラレム・ジョージ・スクワイヤー(中央アメリカ諸国の代理大使)と知り合い、彼の出版のための挿し絵を描く仕事で生活できるようになりました。
 やがて、海軍に入り、「マスター・メイル」の資格を得て、日本派遣の遠征艦隊に随行することになりました。
 当時は、写真機が使われる前で、スケッチ我を描く画家は重要な存在でした。しかも、ハイネは速筆のスケッチ画を描く技能を持っていることで定評がありました。
 彼の日本遠征の時に描かれた絵は、アメリカメリーランド州アナポリスの米海軍兵学校の博物館に保存されています。
 後、故郷に戻り、プロイセン政府からの勧誘で、ふたたび日本をはじめとする東アジア遠征に加わりました。しかし、その後、1885年、故郷に近いレスニッツで58才の生涯を閉じました。

ペリー

1794年〜1858年
ペリー
 本名をマシュー・カルブレイス・ペリーといい、1794年4月10日アメリカ合衆国ロードアイランド州ニューポートで生まれました。ペリーの父は商船の船長や積荷監督官などをしておりました。兄が海軍士官だった影響もあり、ペリーは14才で海軍士官候補生になりました。
 1821年、植民地の監督官をアフリカに護送する航海で初めて船長の任に就き、翌年、ビッドル提督率いる海賊討伐艦隊に加わり、西インド諸島で海賊退治の任に携わります。
 1833年からブルックリン海軍工廠の司令官として地上勤務に就きますが、1837年に『海軍に関する所見』という論文を発表しています。これには、諸外国と比較してアメリカ海軍がいかに貧弱であるかを述べています。1836年現在、蒸気船の保有数は、イギリス21隻、フランス23隻、1814年に世界最初の蒸気軍艦デモロゴス号を建造した実績を持つアメリカは、1隻も保有していませんでした。
 蒸気船研究のために、イギリス・フランスを視察した後、1839年には実験蒸気船フルトン号の初代艦長となり、その実績が議会に認められ、大型の蒸気軍艦ミシシッピ号とミズーリ号が建造されました。これにより、アメリカは蒸気軍艦時代の幕開けを迎えました。アメリカ海軍の蒸気船導入に尽力したペリーは、『蒸気海軍の父』と呼ばれるようになりました。
 1846年から2年続いた対メキシコ戦争で、ペリーはメキシコ湾艦隊司令長官となり、蒸気船を率いて活躍し、アメリカの勝利に終わりました。その結果、アメリカはカリフォルニアを得ることになりました。
 メキシコ戦争後、郵船総監督官の任に就きますが、1852年に東インド艦隊司令長官として日本へ赴くべく命令を受けます。日本遠征艦隊は、当初12隻の予定でしたが、艦隊編成がはかどらず、1852年11月24日、ミシシッピ号1隻だけで東海岸ノーフォークを出港しました。太平洋を渡る航路には、蒸気船用の給炭地が確保されていなかったため、大西洋を渡り、アフリカ、インド、中国を経る航路をとりました。
 ペリーが日本遠征に出発したあと、政権が交代し、外交方針が不侵略路線へと転換したため、艦隊が補給されず、1853年7月8日に浦賀に来航したのは、4隻だけでした。ちなみに、翌年2回目の来日時には9隻の艦隊がそろいました。
 1855年に帰国し、遠征についての詳細な記録『アメリカ艦隊の中国海域及び日本遠征記』という題で出版しました。約1500ページに渡る3巻本で、1巻が遠征の全行程、条約交渉、日本人の生活など、2巻が博物学的調査、日本近海の海図など、3巻は航海中の天体の観測記録になっています。1857年12月には「日本遠征記」の編纂作業を終えています。
 しかし、人生最大の仕事を終えて生き甲斐を失ったのか、病気で伏せるようになり、1858年3月4日自宅で心臓発作を起こして63年の生涯を閉じました。

サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ

1812年〜????年
 ペリー来航時には、通訳としてやって来ました。
 1812年9月22日、アメリカニューヨーク州ユチカ市で、14人兄弟の長男として生まれました。
 1832年、米国対外宣教委員会の中国の広東印刷場(後にマカオへ移転)の監督者になり10年ほど滞在しました。その間、印刷技術、中国語、ポルトガル語、日本語を学びました。一時アメリカへ帰国し、『中国総論』という書物を出版し、これは後世まで高く評価されたそうです。
 1837(天保8)年、米国船モリソン号が日本の漂流漁民を送り届けるために浦賀沖へ現れたとき、江戸幕府は大砲を撃ってこれを追い返してしまう事件がありました。その時、20代の若き日のウィリアムズも同乗していました。
 アメリカ大統領の国書を受け取るまで、日米両国の実務者間で何度も協議が繰り返され、通訳に当たったウィリアムズは、担当の浦賀奉行の配下の性格をよく観察していました。香山栄左衛門は大変紳士的で、ペリー来航を好意的に考えてはいるが、立場上の限度をわきまえていると分析、中島三郎助は、対照的に奇抜な言動をし、船や大砲などなんにでも興味を持ち丹念にメモをとり続けたとあります。

佐久間 象山(さくま しょうざん)

1811年〜1864年
左・徳田屋跡(東浦賀)
右・寓居跡(京都)
 幕末の志士の誰もが一目置いていた、兵学者。勝海舟や吉田松陰が門下生になっています。
 1811(文化8)年に生まれ、名を国忠、通称啓之助といい、号の象山は松代にある海抜475メートルの山の名前に由来します。17才で家督を継ぎ、22才の時に江戸遊学を許され佐藤一斎の門徒となり、儒学(朱子学)を学びました。
 1842(天保13)年、老中で海防掛を担当することになった松代藩主・真田幸貫は、象山を顧問として海外事情の調査を依頼しました。この時、幕府代官であり、西洋式の砲術家・江川太郎左衛門(英竜)の門下となるとともに、自力で翻訳洋書を読破し、藩主の期待に答えようとしました。
 その最初が『海防八策』で、1842(天保13)年の秋に提出されました。主な内容として、アヘン戦争後のイギリスの動向、江戸を守るための房総や相州の海防、西洋式の大砲の増産、軍艦を建造し海戦の訓練をするなどでした。
 この仕事をきっかけとして、西洋兵学の研究に傾き始めました。
 1850(嘉永3)年4月、初めて三浦半島に足を運び、海岸にある台場を回り、異国船の進入を防ぐ目的にかなった台場が、江戸湾(東京湾)には1つもないことを知り愕然としました。江戸へ戻った象山は、江戸湾の真ん中を異国船が通過すれば、台場からの弾丸がそこまで届かない致命的な不備を指摘した上申書を幕府に提出しようとしましたが、幕府の怒りを恐れた藩当局によって差し止められてしまいました。
 そして、1853(嘉永6)年6月3日ペリーが来航し、翌4日早朝に江戸の松代藩邸に浦賀沖へ姿を現したと知らせが届きました。この知らせはすぐさま象山に告げられ、足軽2人とともに浦賀に向けて旅立ち、その日の夜には浦賀に到着しました。
 象山が記した『浦賀日記』によると、6月5日に「朝、山に登って黒船の停泊している様子を一見す。」とあります。この時登った山は、現在臨海団地と呼ばれているところと思われます。
 真田藩の重役・望月主水に宛てた手紙によると、かねてから懇意にしていた小泉屋に宿泊したとあります。翌日、吉田松陰と合流し、東浦賀の徳田屋に宿泊しました。

黒船

黒船
サスケハナ号模型
 私は人ではありませんが、今回は特別ゲストとして登場です。
 「黒船」とは、1603年イエズス会の宣教師によって編纂された「日葡(にっぽ)辞書」で「黒船(Curofune)」を引くと、「インドから来るナオ(大型の帆船)のようなピッチ塗りの船」とあります。インドから来る船とは、ヨーロッパの船をさします。ピッチ(防水・防腐のための塗料)で船体が黒いヨーロッパ船を、中国やアジアの船「唐船」と区別し「黒船」と呼ぶようになりました。
 16世紀半ばから17世紀はじめまで、日本には多数の黒船がポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスから来航していました。鎖国後は長崎出島のオランダ船のみとなりましたが、幕末になって再び賑やかになってきました。
 ペリー来航16年前の1837年、アメリカ商船モリソン号が日本の漂流民を乗せて浦賀沖に来ますが、浦賀の砲台から砲撃を受け、漂流民の引き渡しもできずに退去しています。その9年後、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル率いるコロンバス号・ヴィンセンズ号の艦隊が、最初のアメリカ政府派遣使節として浦賀沖に来航しますが、通商を開くという目的は達成できていません。ペリー艦隊は、江戸湾に来たアメリカ政府派遣使節としては2番目ですが、蒸気船が来たのは初めてでした。
 ペリーの4隻の艦隊は、2隻が蒸気船の旗艦サスケハナ号・ミシシッピ号、残り2隻が帆船サラトガ号・プリマス号です。サスケハナ号は1850年の建造で、全長78.3メートル、排水量2450トン、乗組員300名でした。日本の千石船が100トン程度だったので、20倍以上の大きさになります。このような巨大な蒸気船を見て「伊豆大島が動き出したような巨大な船」だという人もいました。ちなみに記念艦三笠の全長が132メートル、ボーイング777が63.73メートル、ザンジバルが255メートル。
 動力は、石炭を燃やしてボイラーで蒸気を起こし、その蒸気でエンジンを動かして、船体両側面にある外輪を回転させて推進力とします。ただ、非常に燃費が悪いので、港に出入りするときや無風状態の時しか使わず、航海のほとんどは帆を張って風力を利用していました。
 日本人にとっては、この世の物とは思えないペリーの蒸気船ですが、実は、外輪式蒸気軍艦は、イギリス・フランスで発展していたスクリュー式蒸気軍艦に比べ、鈍重さが目立ち、すでに時代遅れのもでした。ペリー来航の年に勃発したクリミア戦争では、大きな外輪が敵の砲撃の的となり、外輪を破壊されて航行不能となった艦が続出し、実践での弱点を露呈していました。
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