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1213年 和田義盛の乱


和田義盛の乱

幕府の権力争い

 
源頼朝の墓
源頼朝の墓

 1199年、源頼朝が急死すると、鎌倉幕府は若年の源頼家の親政を制限し、有力御家人による合議制へと移行しました。
 その後、北条時政(1138年〜1215年)、北条義時(1163年〜1224年)父子は、有力御家人を次々と滅ぼし、事実上、幕府の実権を握りました。

三浦半島の歴史:人物事典・北条時政北条時政
三浦半島の歴史:人物事典・北条義時北条義時


ライバルを次々と滅ぼす

頼朝死後、13人の合議制へ

 
大江広元の墓
大江広元の墓

 北条時政をはじめとする有力御家人たちは、源頼朝の死後、将軍の権力を抑える動きに出ました。
 北条時政(ほうじょうときまさ)、北条義時(ほうじょうよしとき)、大江広元(おおえひろもと)、三善康信(みよしやすのぶ)、三浦義澄(みうらよしずみ)、和田義盛(わだよしもり)、比企能員(ひきよしかず)、梶原景時(かじわらかげとき)ら、13人が訴訟を担当する合議制をとりました。

三浦半島の歴史:人物事典・大江広元大江広元
三浦半島の歴史:人物事典・三善康信三善康信
三浦半島の歴史:人物事典・三浦義澄三浦義澄
三浦半島の歴史:人物事典・和田義盛和田義盛
三浦半島の歴史:人物事典・比企能員比企能員
三浦半島の歴史:人物事典・梶原景時梶原景時

ライバルを滅ぼす

 

 1203年、北条時政は2代将軍の源頼家の妻の父の比企能員を殺害します。源頼朝の次子の源実朝を将軍にするとともに、源頼家を伊豆修善寺に幽閉します。さらに翌年には殺害してしまいます。
 その後、北条時政は政所別当に就任。

伊豆へ退隠

 
北条政子の墓
北条政子の墓
 1205年、後妻の牧の方の娘婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)を将軍にしようとしましたが、北条義時、政子らの反対にあい、伊豆へ退隠を余儀なくされました。

三浦半島の歴史:人物事典・北条政子北条政子

和田義盛の乱

増長する北条氏追討の陰謀へ加担

 

 1211年、信濃国で泉小次郎親衡による北条氏打倒の陰謀が企てられていました。その企てに参加していた首謀者13人の中に、和田義盛の四男四郎左衛門尉義直、五男五郎兵衛尉義重、甥の平太胤長がいました。
 1213年2月15日に使者の安念法師が捕まり、企てが露見します。首謀者に対する取調べは、和田氏以外のものにはかなり穏やかで、脱走したり、罪を咎められない者もいました。

北条義時の罠

 

 1213年3月8日には、上総国(現在の千葉県)に引退していた和田義盛は、一族98人と共に鎌倉に参上し赦免を求めました。一度は許されたものの、後日、面縛された胤長は居並ぶ和田一族の前に引き出され、さらに重い罰を加えるとの意志が伝えられ、和田義盛の面目は丸潰れとなりました。
 3月17日、胤長は陸奥国岩瀬郡に配流となり、荏柄天神前にあった胤長の屋敷は一族の和田義盛のものとなりました。しかし4月2日に、北条義時は一方的に屋敷を取り上げ、代官の久野谷弥次郎を追い出してしまいます。
 再びの屈辱を受け、決起することとなります。

幕府を2分する戦いへ

   1213年5月2日、和田義盛はついに挙兵します。戦いには、和田一族の他にも、朋友たちも加わりました。
 1213年5月2日〜3日にかけて、幕府を二分する戦いとなりますが、和田氏の一族でもある三浦義村・三浦胤義が参加しなかったこともあり、北条義時側の勝利に終わります。
 和田義盛は鎌倉武士の一典型といわれ、惣領制による一族の団結を重視した古い型の東国武士でした。

三浦半島の歴史:人物事典・三浦義村三浦義村
三浦半島の歴史:人物事典・三浦胤義三浦胤義

政局の混乱は続く

北条氏の時代へ

 

 1205年、北条義時は父の北条時政に代わって政所別当になっていました。1213年には、侍所別当も兼ねており、執権としての地位を固めました。
 しかし、政局の混乱は納まることはありませんでした。

源実朝暗殺

 

 1219年、源実朝が甥の公暁(くぎょう)に暗殺されました。
 公暁をそそのかしたのは、北条義時、もしくは三浦義村ではないかと推測されていますが、証拠は残っていません。

三浦半島の歴史:人物事典・源実朝源実朝
三浦半島の歴史:人物事典・公暁公暁


和田義盛の乱略年表

1199年 源頼朝が死去
有力御家人による13人の合議制が始まる
1200年 北条時政が梶原景時を滅ぼす
1203年 比企能員の乱が勃発
しかし、比企氏の北条氏追討は失敗に終わる
結果、2代将軍源頼家は修善寺に幽閉される
1204年 源頼家、殺害。
1205年 畠山重忠を滅ぼす
北条時政らの平賀朝雅将軍擁立計画を立てるが失敗(牧の方事件)
1213年 和田義盛が北条氏の謀略にかかって挙兵するも討ち死に(和田義盛の乱)
1219年 3代将軍源実朝が、源頼家の子公暁に暗殺される
将軍職が空位になり、貴族を将軍に招く交渉をするが失敗に終わる
1221年 承久の乱が勃発
上皇側が敗れ、幕府の優位が確立されました
1225年 京都に六波羅探題を設置する
北条政子が死去
連署(執権の補佐役)を置く
評定衆(政務や裁判に関わる)を設置する(当初は有力御家人が任命されるが、次第に北条一門が占める)
1226年 4代将軍を九条頼経とし、摂家将軍が始まる
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