昭和2年2月、金子堅太郎、頭山満、清浦圭吾、浜地天松、花田半助らが集まって、観音思想の普及を図り、世相浄化の一助となさんという趣意書を作成し、工事費15万円、付属施設建設費5万円を目標に勧募が始められました。
昭和4年4月14日、観音像建立のための工事が始まりました。
世界恐慌もあって思うように寄付金が集まらず、昭和9年に工事は中断され、未完成のまま23年間放置されることになりました。
昭和29年11月2日、安藤正純、高階瓏仙禅師、五島慶太らが発起んとなって財団法人「大船観音協会」が発足しました。画家の和田三造、建築家の坂倉準三らに意見を求め、東京芸術大学教授で建築家の吉田五十八を中心に、東京芸術大学教授で彫刻家の山本豊市の設計と指導のもと、修仏工事が進められました。
昭和32年5月18日、起工式が行われました。昭和35年4月28日、落慶式が行われました。総工費は4千数百万円でした。
それ以来、東京急行電鉄を核とする東急グループが中心となる財団法人「大船観音協会」によって運営されました。
理事長には大本山總持寺貫首岩本勝俊禅師が就任し、観音像の参詣者からは信仰の場への移行を要望され、昭和56年11月20日、曹洞宗「大船観音寺」となりました。
近年、日本で暮らすアジアの人々の心の拠り所ともなっており、毎秋、「ゆめ観音」と題する各国の音楽舞踊が奉納されています。
高さ25m、幅19m、奥行13mあります。
昭和45年4月、神奈川県原爆被災者の会によって、原爆犠牲者慰霊碑が建立されました。慰霊碑には、爆心地の西蓮寺から地蔵尊の土台石、長崎の浦上天主堂からも石が寄贈され、それぞれの被爆石に千羽鶴が刻まれたイカダに乗せられ、台座には平和の丘に向かう姿が描かれています。
慰霊碑の右手には原爆の火の塔があります。
福岡県の南東、大分県との県境に星野村があり、そこえ生まれ育った山本達雄は、召集を受けて昭和20年8月6日、広島の陸軍野営部隊で本隊へ向かう汽車の中にいました。午前8時15分、原爆が投下され、広島の街は焦土と化しました。汽車は止まり、市内に住む叔父の安否を気遣い、市街地を探し回ります。そして、8月15日に終戦を迎えました。
帰郷に際して、形見を探して叔父宅近辺を掘り返すと、残り火がくすぶっているのを見付け、火をカイロに移しました。星野村まで持ち帰り、仏壇に灯され、囲炉裏や火鉢にも移して、23年間、守り続けました。昭和41年、星野村特産のお茶の取材に来た新聞記者に、叔父の供養のための火であり、原爆で亡くなった人々を弔う火、恒久平和を願う火、怨念の火であることを話しました。こうして、原爆の火が世に知られることになり、昭和43年8月6日、星野村役場前に建立された「平和の塔」に移され、ここから大船観音の原爆の火の塔にも移されました。
毎年9月、被災者が集まって慰霊祭が行われます。
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