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三浦半島の付け根、柏尾川中流の右岸に位置しています。北部は低い丘陵に囲まれた、谷あい地です。
奈良時代〜平安時代の横穴古墳がありました。
平安時代、『和名抄』では、相模国高座郡十四郷のひとつで、訓みは「乎加毛止」でした。
郷域は現在の鎌倉市岡本・玉縄・植木・城廻・関谷、江戸時代の村岡村、横浜市戸塚区長尾台町・東俣野町などを含む一帯と考えられています。
大永6年、里見義弘が鎌倉に乱入した際、玉縄城主北条氏時は戸部川のあたりで応戦し、兵士35人が戦死しました。その時の戦死者を葬った首塚(甘糟塚)があります。塚上には、安政8年の碑が建っています。
江戸時代、相模国鎌倉郡の岡本村です。
寛永10年は甘縄藩領、元禄10年は旗本松前氏・藤本氏知行と幕府領、幕末は旗本松前氏・藤本氏・松浦市の相給です。
村高は「元禄郷帳」、「天保郷帳」、「旧高旧領」では、521石余。「旧高旧領」では、松前氏知行が299石余、藤本氏知行が110石余、松浦市知行が110石余となっていました。
文政12年、松前氏知行分4ヶ村年貢皆済下目録控によれば、年貢米161俵余、村役人給米などを差し引き換金して70両余、ほかに当年先納金38両余、畑年貢・小物成が14両余となっていました。
「新編相模」によれば、江戸から12里、東西5町・南北20町許、家数50軒。戸部川に寛永2年丑堰を設置し、岡本村のほか、植木村・関谷村の水田へ引水しました。
神社には岡本村・城廻村などの総鎮守諏訪御料合社があり、もとは玉縄城内にありましたが、廃城後は岡本村に移転しました。寺院は浄土宗小林寺、古義真言宗玉泉寺があります。小林寺は明治時代に廃寺となり、玉泉寺は関東古義真言宗本末帳に寺内御免とあります。
明治22年、玉縄村の大字となりました。
明治24年、戸数58、男192人、女185人でした。
明治42年、静岡県から祐昌寺が転居してきました。のち、寺号を改め、曹洞宗無我相山黙仙寺となりました。昭和4年に起工され、昭和32年に完成した高さ32mの鉄筋コンクリート製の大船観音を管理しています。
玉縄郷土史によれば、大正初期のおもな生産物は、米・麦のほか、桑・蔬菜・甘藷などになります。
昭和8年、大船町の大字となりました。
昭和23年、鎌倉市の大字となりました。
昭和25年、世帯数360、人口3,184人。
昭和35年、世帯数937、人口3,872人。
昭和37年、県立農業試験場跡地に県立フラワーセンターが開園しました。
昭和38年、横須賀市から市立栄光学園が転居してきました。
昭和44年、一部が玉縄になりました。
昭和45年、世帯数1,046、人口3,737人。
昭和49年、玉縄中学校が開校しました。 |