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大江稲荷神社


大江稲荷神社

バス停十二所神社下車 徒歩3分
地図
大江稲荷神社
大江稲荷神社

 金沢街道の県道沿いにあるとても小さな稲荷神社。県道沿いを歩いていれば見逃すことはないと思いますが、わざわざ覗いてみようとは思わないほど小さな稲荷神社です。入っても大丈夫なのかなって、不安になっちゃうくらい小さい神社です。
 稲荷神社へ向かう最初の階段と、社殿直前の最後の階段は、かなり古いみたいです。途中の階段は、最近になって作ったものみたいです。
 祭神はもちろん、大江広元です。
 この稲荷神社は、大江家の屋敷神として祀られていた神社です。大江家の屋敷があったと言われているのは、滑川を挟んで向かい側あたりだったと言われています。
 屋敷神とは、屋敷や土地を守る神様で、屋敷内、屋敷の裏、敷地近くの土地、敷地近くの山林などに祀られます。大江稲荷神社は、もとはもっと山側にあったと言われています。

写真撮影:2009年02月17日

大江稲荷神社

バス停十二所神社下車 徒歩3分
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大江稲荷神社
大江稲荷神社

 稲荷神社っぽく、「稲荷大明神」の旗が並んでいます。こういったのぼり旗って、1500円〜2000円くらいで、ホームセンターなどで売られているんですよ。
 大江広元(1148年(久安4年)〜1225年(嘉禄元年))は、一騎当千の猛者揃いの幕臣たちの中で、数少ない文官です。大江氏は、もと土師氏(はじし)という古い家柄で、平安時代は学問の家として栄えました。広元は大江維光の子に生まれ、聖母の再嫁とともに中原広季の養子となりましたが、のちに大江姓に戻りました。実父は藤原光能だとも言われています。
 元暦元年、37歳の時に源頼朝に招かれ、鎌倉へ行きました。始めは公文所別当を務め、のちに政所別当の要職に任ぜられました。守護・地頭の設置を源頼朝に進めるなど、政策面で貢献しました。
 頼朝の死後、実権は北条氏に移っていきますが、時勢に逆らわず北条氏に協力しました。
 承久の乱が起きた時、広元はすでに74歳になっており、出家して覚阿と号し、目も不自由でしたが、京都への進撃を進めています。幕府御家人の盛衰を局外から眺めて40年、78歳で亡くなりました。4男の大江季光は、毛利氏を称しています。

写真撮影:2009年02月17日

大江稲荷神社

バス停十二所神社下車 徒歩3分
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大江稲荷神社
大江稲荷神社

 拝殿には扉などもなかったので、こっそり写真を撮らせてもらいました。
 中央には木製の神棚があって、この神棚にも扉がありませんでした。中を覗いてみたら、球体の石がいくつか置かれていました。この球体の石がご神体なのかな?
 側面には、寄付をした人の名前がズラズラっと書かれてありました。とても小さな神社なのに、たくさんの名前が書いてあってビックリしました。地元では信仰の厚い稲荷なんですね。
 大江広元のお墓は、西御門、明王院裏の天園ハイキングコースにあります。
三浦半島観光地図:鎌倉市西御門・毛利季光・大江広元・島津忠久の墓
三浦半島観光地図:鎌倉市十二所・大江広元の墓

写真撮影:2009年02月17日

灯篭

バス停十二所神社下車 徒歩3分
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灯篭
灯篭

 境内にあった灯篭です。三浦半島でもそうなんですが、柔らかい泥岩・砂岩が使われています。加工しやすいというメリットはあるものの、風化してしまうので、痛みが早いです。見た目ではかなり古そうでも、江戸時代後期に作られた、わりと新しいものだったりするかもしれません。
 石質が柔らかいので、指で触ると表面はザラザラっとしていて、簡単に崩れてしまいます。だからといって、崩したりしないように!
 こうした石は、鎌倉石って呼ばれています。現在では採取できませんが、わりと最近まで採取されていたみたいです。風化が早いことを利用して、古寺の雰囲気を短期間で出すために使われることもあります。

写真撮影:2009年02月17日

灯篭

バス停十二所神社下車 徒歩3分
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灯篭
灯篭

 境内にあった傾いている灯篭です。このままにしておくと倒れちゃうかもしれないから、据え付け治してあげればいいのに。でも、重いから直すのも大変なんだろうなー。
 固い石で造られているので、風化せずに残っています。花崗岩っていうのかな?

写真撮影:2009年02月17日
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