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小網代湾と油壷湾の間に突き出た半島の先端部に、新井城の中心がありました。現在では、東京大学臨海実験所や、油壷マリンパークあたりになります。
三浦氏は、宝治合戦の後、居城を何回か変え、1438年(永享10年)、三浦時高の代に、自然を利用した平山城である新井城を油壷に築造したといわれています。
油壷バス停から実験所へ行く途中、左手の海の見えるあたりが新井城の木戸口(内城の大手口)で、ここには、内の引橋がありました。
実験所構内には、城の様子を知ることのできる土塁、空掘、平場などの遺構が残っています。また、本丸跡や、敵を偵察する高櫓跡と思われる場所もあります。
1516年(永正13年)、ここで後期三浦氏は滅亡しました。マリンパーク前の駐車場あたりで新井城最後の合戦が行われました。
マリンパーク右手には、この辺りで戦死したという三浦義意(みうらよしもとorよしおき)のお墓があります。また、胴網の浜へ下る道の途中、小網代湾を望む断崖の上の二の丸跡という場所には、三浦義同(みうらよしあつ)のお墓があります。お墓の左面には、落城の際に詠んだ
「討つものも 討たるるものも かわらけ(土器のこと)よ くだけてあとは もとの土くれ(土の塊のこと)」
という辞世の歌が刻まれています。
三浦半島の歴史:1247年・宝治の合戦
三浦半島の歴史:人物事典・三浦時高
三浦半島の歴史:人物事典・三浦義意
三浦半島の歴史:人物事典・三浦義同 |
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臨海付属実験所の左手の崖にあるやぐらで、新井城の食料貯蔵庫として使用されました。
どのくらいの食料が貯蔵されていたかというと、1駄とは馬の背に米俵を2俵積む事で、1駄=2俵、1000駄=2000俵ということになります。
このほかに、6畳敷のやぐらが7つあったといわれています。幕末のペリー来航時には、浦賀からここに米俵を運び込んだともいわれています。
三浦氏の城兵2000人が、7000人もの北条軍に対して、3年間も籠城する事ができたのは、このやぐらのおかげと、城ヶ島に家臣を配置して海からの物資輸送ルートを持っていたからだと考えられています。 |
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1247年、宝治の合戦で三浦一族の多くが滅びたなか、佐原義連の孫の盛時は北条方に味方をして生き残りました。合戦が終わってから、本家代々の三浦介を継ぐことになりました。
その後、戦国時代になると、盛時の子孫が三浦半島で強い力を持つようになり、居城を三浦市子網代の新井城に改めました。
新井城は、三方を海に囲まれ、台地には谷戸が多く入り込んでいます。
敵が攻めにくい地の利をたくみに生かした、自然の要塞です。
しかし三浦義同らは、1516年(永正13年)7月11日、北条早雲の軍勢に攻められ、落城しました。
実戦経験のない僕が見ても、天然の要害といった感じがします。
三浦半島の歴史:人物事典・佐原義連
三浦半島の歴史:人物事典・佐原盛時
三浦半島の歴史:人物事典・北条早雲 |
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