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三笠公園通りの隣、歯科大学や横須賀学院の所です。
芥川龍之介が英語嘱託講師として、1916年(大正5年)12月〜1919年(大正8年)3月まで教鞭をとったことがあります。のち、大阪毎日新聞社に転職しています。教官時代の見聞は、『横須賀小景』、『書簡』、『あばばばば』、『蜜柑(みかん)』などにまとめられています。
海軍機関学校は、日本海軍の機関科に属する士官を養成するための軍学校です。1881年〜1887年と1893年〜1945年に設置された、旧海軍三校のひとつです。
戦前、「舞鶴」といえば、「海軍機関学校」を意味するほどでした。
機関術・整備技術を中心に機械工学・科学技術(火薬・燃料の調合技術)・設計などメカニズムに関わるあらゆる事の研究・教育を行いました。機関科将校の術科学校であり、投炭技能や造船技術の訓練を下士官に施していた工機学校が閉校していた大正3年〜昭和3年の間は、工機学校に代わる組織として「練習科」を併設しました。従来の機関将校育成コースは「生徒科」と称しました。
将来将校となるべき生徒以外にも、准士官・下士官を選修学生として教育していました。
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写真撮影:----年--月--日 |
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小川町海岸から見た、海軍機関学校の写真です。小川町海岸なんて、聞いたことない?埋め立て前の貴重な写真なんですよ!!
横須賀中央の下町エリア、実はほとんどが埋立地なんですよ。市街地と軍港の発展にともなって、ほぼ無計画に埋め立て事業が推し進められ、現在の繁華街が出来上がりました。
1874年、横須賀に海軍兵学寮分校が置かれました。
1878年、海軍兵学校附属機関学校となります。
1881年、海軍機関学校となります。
1887年(明治20年)、廃止となる。
1893年(明治26年)、再設置されました。
関東大震災によって校舎が被災したため、1923年〜1925年は一時的に江田島の海軍兵学校内に移ります。
1925年、京都府舞鶴に移転します。
1942年11月、将校を兵科と機関科とに区分していた将校制度が改正されて機関科将校が「将校」へ統合されたことに伴い、1944年10月に廃止され、海軍兵学校舞鶴分校となります。「機関学校」の名前は横須賀市大楠に既設の海軍工機学校が改正して継承されました。
1945年11月30日、 舞鶴分校は廃校になります。
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写真撮影:----年--月--日 |
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