開国とともに海軍力の劣性を知らされた幕府と、当時東洋進出の足場を求めていたナポレオン3世の幕府接近の意図とが、駐日フランス公使レオン・ロッシュの製鉄所開設の建議となり、フランスの軍港ツーロン港に似ているということで、1864年(元治元年)に横須賀に製鉄所建設が決定しました。江戸幕府崩壊寸前の状態だったため、費用の捻出はフランスの援助を仰いでいます。フランスへの生糸輸出を独占し、その利益を担保にフランスから借金をしました。
製鉄所建設に携わったのは、フランス海軍技師のフランソワ・レオン・ヴェルニーと、江戸幕府勘定奉行の小栗上野介忠順でした。
小栗忠順は1860年(万延元年)の幕府遣米使節の一員として渡米したこともあり、町奉行、歩兵奉行、外国奉行などを歴任した幕府きっての実力者でした。最後まで徹底抗戦を主張した主戦論者であったため、薩長側に憎まれ、1868年(明治元年)上州(現在の群馬県)の知行地で捕らえられ斬首されてしまいました。
フランソワ・レオン・ヴェルニーは1869年(明治2年)、観音崎に日本初の洋式灯台を建てました。造船所に必要な水を走水から水道で引くなど、多方面で活躍しています。1876年(明治9年)、母国のフランスに帰国しています。
1865年(慶応元年)に建設が始まり、明治維新後も横須賀製鉄所建設は新政府に引き継がれ、1871年(明治4年)に第一船渠が完成し、横須賀造船所と改称されました。一号船渠は日本最古の石積式ドライドックで、その後は手を加えられていないため国宝級のものですが、残念ながら戦後はアメリカ海軍の管理下にあります。長さ119.5m、幅25m、容量4,000tです。
明治17年には、横須賀海軍造船所となり、海軍鎮守府の所属となりました。
明治22年、鎮守府造船部の一部となりました。
明治30年、横須賀海軍造船廠となりました。
明治36年、海軍工廠となりました。
明治40年、軍艦鞍馬建造のため、ガントリークレーンが完成し、大正2年には二代目のガントリークレーンに代替されました。
1945年(昭和20年)10月、終戦によって廃止されるまで、多くの艦船を建造してきました。横須賀海軍工廠は、造兵部、造船部、造機部、会計部、潜水艦部などによって構成されていました。
横須賀海軍工廠の造兵部は兵器の増修、造船部は船体の増修、造機部は機関と鋳物の増修、潜水艦部は潜水艦の増修と性能実験を担当していました。他にも、航海、光学、電池、機関、機雷の各実験部も置かれ、兵器や材料の実験が行なわれていました。
大正8年、横須賀海軍工廠内に設置されていた海軍技手養成所は呉工廠に移転されました。各工廠では造艦分担があり、横須賀海軍工廠では戦艦、航空母艦、潜水艦の建造を担当していました。
建造した代表的な艦船は、戦艦比叡(大正3年竣工)、山城(大正6年竣工)、陸奥(大正10年竣工)、空母飛龍(昭和14年竣工)、翔鶴(昭和16年竣工)、加賀、信濃(昭和19年竣工)などがあります。
造船部、造機部、潜水艦部、機関実験部は現在の米海軍横須賀基地にあたる横須賀軍港に置かれ、造兵部、航海部、光学部、電池実験部は現在の船越・田浦にあたる長浦に置かれました。機雷実験部は久里浜に置かれました。
昭和60年、二号船渠の調査がアメリカ軍の協力を得て行なわれました。直方体コンクリートをブロック状に積み上げた、典型的な洋風流であることがわかり、明治33年2月と刻印された日本最古の鉄筋コンクリート柱18本が発見されています。
写真の錆びた鉄の塊は、ディーゼルエンジンです。横須賀海軍工廠機関工場周辺から見付かった戦前のものです。ディーゼルエンジンの研究開発が行なわれ、現在でもこの施設周辺では当時のディーゼルエンジンや部品が見付かります。
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