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山号は東光山、宗派は浄土真宗本願寺派、本尊は聖観音菩薩(資料によっては阿弥陀如来となっています)、三浦三十三観音20番札所となっています。創建は鎌倉時代初期、武将の畠山重忠と伝えられています。
もとは、逸見山浄善寺(天台宗)と称していましたが、文明年間(1469年〜1487年)11世文覚の時、蓮如上人に帰依し浄土真宗に改めました。
唐金製の観音菩薩があり、三浦安針の守護物であったといわれており、安針が寄進したものだそうです。また、安針ゆかりの品として、什宝の貝多羅葉1枚が伝えられています。ともに、シャム(現・タイ)の国から渡来した物だそうです。安針の菩提寺になっていました。
この寺西方に、通称「ブドウ畑」と呼ばれる場所があり、そこに安針の屋敷があったと伝えられていますが、定かではありません。
本堂は、1712年「(正徳2年)に再建され、1901年(明治34年)に大改修した立派な本堂です。1873年(明治6年)、逸見小学校はこの本堂で誕生しました。作家中里介山(なかざとかいざん)が在学していました。
ここの梵鐘にはちょっとしたエピソードがあります。第2次大戦中供出されていて、戦後はアメリカに持ち出されてしまいました。その後、アトランタの公園にあることがわかり、1961年(昭和36年)に返還され、元のお寺に戻ってきました。三浦半島では数少ない、江戸時代の貴重な梵鐘の1つです。 |
写真撮影:---年--月--日 |
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三浦半島を縦貫する浦賀道の中継地であった逸見は、徳川家康が三浦安針に所領を与えたように、幕府要衝の地でもありました。
1865年(慶応元年)、横須賀製鉄所建設のため、逸見湾3万坪を埋め立てました。当時の逸見村は、戸数80戸で半農半漁の寒村でした。
工事の進展とともに人口が集中し、1876年(明治9年)には水兵屯所ができ、1889年(明治22年)には大船までの鉄道も開通し、製鉄所は東洋一の造船所に躍進していきました。
それとともに、逸見町は、1908年(明治41年年には戸数1871戸となり、軍港の玄関の町として発展していきました。 |
写真撮影:---年--月--日 |
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