荻野の歴史
三浦半島の西部になります。
前耕地川に沿って細長く狭い地域で、荻野小学校や大楠高校があります。台地からは縄文時代早期の土器片、古墳時代の須恵器などが発掘されています。
『吾妻鑑』にはこの地に住んでいたと考えられる荻野八郎など数名の人名が確認できます。1213年(建暦3年)、和田合戦で和田義盛側についた武士の中に荻野の武士がいました。「五月二日、三日の合戦で討たれし人々の日記」の中に「をきのの八郎」、「虜捕の人々」の中に「をきのの彌八郎」の名前があります。
地名としては戦国時代から確認できます。
相模国三浦郡の荻野になります。
『役帳』には、小田原北条氏の半約被仰付衆で西脇寄子たる小林新次郎の所領役高として、「拾六貫八十五文 長坂内 萩(荻)野分」とあり、当時は長坂地域に含まれていたことがわかります。
江戸時代には三浦郡の荻野村になります。寛文年間に長坂村から分村して成立しました。
元禄10年、幕末、ともに幕府領でした。
村高は、『元禄郷帳』では127石余、『天保郷帳』、『旧高旧領』では122石余でした。『天保郷帳』には、長坂と書かれています。
『新編相模』では、江戸から16里、東西2町余、南北10町余、寺院には日蓮宗の正蓮寺があります。村内には和田義盛が畠山重忠と合戦の時に陣貝を慣らしたという旧跡と伝えられる「貝吹松」、その付近には「しゃむじ塚」という塚がありました。地内には三浦往還が通ります。
明治元年、神奈川府を経て神奈川県に所属します。
明治22年、中西浦村の大字となりました。
明治24年、戸数19、男54人、女43人でした。
明治44年、西浦村の大字となりました。
昭和10年、大楠町の大字となりました。
昭和18年、横須賀市の大字となりました。
地名の由来
荻(オギ)はススキに良く似たイネ科の植物のことです。また、湿地のことを「オギ」と呼ぶ方言もあります。
野はまだ耕作されていない平地のことを指します。
湿地帯でヨシが茂っている土地という意味になると考えられる地名です。
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