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法蔵院


法蔵院

京急津久井浜駅下車 徒歩10分
地図
法蔵院
法蔵院

 浄土宗のお寺で、五却山法蔵院阿弥陀寺といいます。
 1204年(元久元年)、天台宗の信者である聖覚法印の高弟の明円上人によって開創されました。のち、法然上人の教えを信奉して浄土宗に改められたと伝えられています。
 当初は京都にある総本山知恩院の末寺でした。境内には、子院として雲光院、真珠院があり、末寺として往生院、円乗院、永楽寺、浄慶寺などがありました。1686年頃(貞亨年間)に鎌倉にある光明寺の末寺となったようです。
 弘治・永禄の頃(1556年〜1558年)に房総半島を支配していた里見氏が勢力拡大のために、小田原北条氏と抗争をしていました。里見氏は三浦半島侵略を繰り返し、その際に戦場となって寺院は焼失してしまいました。しかし里見氏は三浦城の攻略が不可能なまま、法蔵院の仏像や梵鐘などを持ち帰りました。その帰路で海が荒れたため、仏像を海に投げ捨てて撤退しました。その仏像は三浦市菊名に流れ着き、無事に法蔵院へと帰ることができました。その縁で菊名には現在でも檀家数十戸があります。その檀家の利便を図るために建立したのが、永楽寺だと伝えられています。
三浦半島観光地図:三浦市南下浦町菊名・永楽寺

写真撮影:2007年12月02日

山門

京急YRP野比駅下車 徒歩10分
山門
山門

 昭和40年代の、法蔵院の山門です。たぶん、現在の山門と同じなんじゃないかなーと思います。
 小田原北条氏は、堂宇の焼失を嘆き、ここに学問所を移築し、九間半・七間半の本堂を建立しました。
 1699年(元禄12年)、総門が建立され、その後も何度か再建されています。総門にある龍の彫刻は創建当初のもので、荒れ狂う波間に龍を配し、その裏には梅と二羽のキジが彫られてあります。この龍は時化の夜に、海上を泳いで対岸の房総半島に渡るという伝説があり、龍の左目には「目打ち」として五寸釘が打たれていると伝えられています。この龍の彫刻は左甚五郎の作とする説もあります。
 1847年(嘉永年間)、鎌倉の光明寺の山門改築の際、古い山門を移築して建立したとされる山門がありました。間口七間、奥行き二間の楼門です。
 1923年、関東大震災によって総門と庫裏を残して全壊してしまいました。本堂の古材は売却され、山門の古材を使って大正12年に仮の本堂を建立しました。その後、昭和47年になって本堂を再建し、昭和55年には庫裏を再建、昭和60年には客殿を再建、昭和63年には総門を再建し、現在に至っています。
 年中行事には正月元旦に修正会、1月23日に御忌法要、5月8日に花祭り、8月17日に施餓鬼法要・秋季彼岸中日法要、11月8日・9日に十夜法要などが行われます。
 特に十夜法要は、鎌倉光明寺第八世観誉祐崇上人が後土御門天皇の勅許を頂いて1495年に奉修された「鎌倉光明寺の十夜法要」を、長井の不断寺、三崎の光念寺、そして津久井の法蔵院の三ヶ寺にて許可をいただいて行われています。武山不動縁日、宮田の神事相撲と合わせて、十夜法要を三浦三市のひとつとして名前が知られています。
三浦半島観光地図:横須賀市長井・不断寺

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