内川新田の歴史
三浦半島の東部、平作川の中流〜下流域に位置します。
内川の大部分が久里浜工業団地となっており、鉄鋼業を中心にチュ小企業が進出しています。昭和56年7月1日、事業所数は114でした。
内川新田はかつては広大な地でしたが、度重なる町界・町名の変更によって、庚申下地区の一部のみとなりました。
久里浜ポンプ場、日本ニュークリアフュエルがあります。
江戸時代、相模国三浦郡の内川新田でした。完成当初は「内川砂村新田」と称していましたが、延宝年間に「内川新田」となりました。
元禄10年、幕末ともに幕府領です。
万治年間に大阪の砂村新左衛門が平作川中流〜下流域の低湿と入り江の干拓に着手しました。水門が何度も壊される難工事でしたが、寛文7年に完成し、寛文11年に検地を受けました。
村高は、『元禄郷帳』では542石余、『天保郷帳』・『旧高旧領』では585石余です。
『三浦古尋禄』では、家数84軒です。
『新編相模』では、江戸から16里、東西25町程・南北5町余、家数91軒、鎮守は天神社・水神社の2社で砂村氏が勧請しました。
寺院には当山派修験の仙蔵院があります。開発時に設けた潮除堤が海岸にあります。
小名に善六組・与兵衛組があり、善六・与兵衛はともに砂村氏の子孫で、当村を二分して所持していました。文化年間、両家の没落にともなって半分は浦賀の商人与兵衛に売却しました。天明年間の文書にも、当村の地主から870両で売り渡されていることが記されています。
明治元年、神奈川府を経て神奈川県に所属します。
明治22年、久里浜村の大字となりました。飛地は浦賀町の一部となりました。
明治24年、戸数100、男316人、女315人。
昭和12年、横須賀市の大字となりました。
昭和29年、一部が池田町1丁目〜5丁目になりました。
昭和34年、一部が久里浜町1丁目〜3丁目になりました。
昭和40年、一部が舟倉町、神明町、久里浜1丁目〜9丁目、久比里1丁目〜2丁目となりました。
昭和53年、一部が佐原2丁目、内川1丁目〜2丁目になりました。
昭和57年、一部が佐原1丁目〜5丁目になりました。
地名の由来
「内川」、または「内川新田」と呼ばれました。
1660年(万治3年)、検地を受けた時に「内川砂村新田」と呼ばれました。
新田開発によって従来の大川・吉井川・佐原川の3つの河川が合一して海にそそぐことになり、合流域を内川と呼びました。
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