千國宏さんが作成した咸臨丸の模型です。1999年(平成11年)5月1日の咸臨丸フェスティバルで、浦賀観光協会に寄贈されました。
咸臨丸は江戸幕府がオランダに発注し、1857年(安政4年)に長崎に回航し、海軍伝習所の操船訓練艦になりました。
日米通商条約批准書交換のため、江戸幕府がアメリカに派遣する外国奉行・新見豊前ら約80名の使節を乗せたポーハタン号の随伴艦として選ばました。浦賀湾の川口に引き入れられ、川口をせき止めて排水した日本初のドライドックで艦底の塗装、水止めのコーキング処理が施されました。
遣米使節は、ポーハタン号で1860年(万延元年)1月23日に横浜を出帆しました。咸臨丸は司令官格の軍艦奉行・木村摂津守、船将・勝海舟、以下96名と、米国船軍大将ブルックスと部下十数名が便乗し、1月13日に出帆しました。連日の荒天で難航を極めました。ポーハタン号は船体の損傷修理のためハワイのホノルルに一時寄港したため、直行した咸臨丸は単独で2月22日にサンフランシスコに到着しました。3月19日にサンフランシスコを出帆し、好天に恵まれ5月5日に浦賀に到着しました。
帰国後は小笠原開拓の用船となりました。1866年(慶応2年)、酷使しすぎたために大修理が必要な状態となりましたが、当時の日本には修理技術がなく、エンジンなどは取り外されました。1868年(明治元年)8月20日、榎本武揚らの江戸湾脱走艦隊に組み込まれ、房総沖を曳航されている時に荒天に襲われ、駿河湾の清水港に避難していたところを攻撃され捕獲されました。
新政府によって、北海道の開拓使に公布され、北海道沿岸の物資運搬に利用されました。1871年(明治4年)9月19日、函館から小樽に向かう途中、渡島国泉沢の海岸で座礁し全損しました。
1990年(平成2年)、長崎のハウステンボスの発注で、オランダのロッテルダムに保存されていた咸臨丸(オランダ名ヤッパン)の図面をもとに、復元されました。
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