たまたま歩道を歩いていたときに、案内板が出ていて気が付きました。調べてみたところ、屯営跡の石碑は浦賀ドックの敷地内に設置されているため、見学することはできないみたいです。
船台の下に石碑があるらしいです。
幕末、住友重機械工業の敷地内は築地新町と呼ばれ、干鰯市場の一部が、幕府軍艦のための石炭囲置場となりました。
1875年(明治8年)、この場所に水兵の基礎教育機関として「浦賀水兵屯集所」が設置されました。その後、「東海水兵分営」、1882年(明治15年)には「水兵練習所」となり、1885年(明治18年)に「浦賀屯営」と改称され、数億の水平を送り出しました。
水兵の基礎訓練を担当した士官たちは、病気やそのほかの理由で海上勤務ができなくなった人たちだったので、「屯営は生きた士官の捨てどころ」と称され、嫌われていました。
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