上海から来日 |
明治維新へと向かう動乱の時代、一人の若いフランス人技師が日本の一寒村、横須賀村にやってきました。その名は、フランソア・レオンス・ヴェルニーといいます。
江戸幕府が、海軍振興のために、横須賀に設立する造船所の首長として上海から来日しました。
三浦半島の歴史:横須賀市深田台・横須賀市自然・人文博物館 |
時代は鎖国から開国へ |
当時は、長く続いた鎖国政策を解き、開国という大きな政策転換を図りました。
ですが、開国はしたものの、自国の海軍力があまりにも時代遅れで脆弱であることを知った江戸幕府は、国防上、海軍力の強化のために欧米諸国から洋式軍艦を購入しました。しかし、洋式軍艦を購入しても、近海に浮かべておくことだけでは海軍力とはいえないので、修理、改修、造船の問題も考えなければなりませんでした。
そこで、購入した洋式軍艦を修理し、新たに新造艦を建造するための設備と場所が必要になりました。
こうして、慶応元年(1865年)、横須賀に製鉄所(造船所のこと)の建設が開始されました。
幕府は、この新しい造船所の建設にあたり、駐日フランス公使レオン・ロッシュの提案を受け入れ、その首長にヴェルニーを迎え入れたのでした。
三浦半島の歴史:横須賀市深田台・横須賀市自然・人文博物館 |
ヴェルニーの生い立ち |
ヴェルニーは、天保8年(1837年)に、フランスのアルデシュ県オブナという小さな町に生まれました。
そして、パリ理工科大学へ進学し、続いて海軍造船学校に進学し、優秀な成績をおさめました。造船技師の資格を取得し、技術者としてフランス海軍に入りました。
中国で砲艦建造の仕事に従事していたとき、日本への赴任の話がもたらされました。
元治元年(1864年)11月、幕府老中の名のもとに、フランスへヴェルニー招致を依頼しました。翌年の慶応元年(1865年)正月に来日すると、小栗上野介、柴田日向守らの製鉄所設立委員などとともに、製鉄所設立原案を作成し、製鉄所約定書が交わされました。
三浦半島の歴史:横須賀市汐入町・ヴェルニー公園 |
ツーロン造船所にて正式契約 |
原案に基づき数々の事業が着手されることとなり、ヴェルニーは機材購入などの理由で、一時、フランスへ帰国します。
慶応元年(1865年)7月6日、外国奉行柴田日向守らの全権団をマルセイユに出迎え、ツーロン造船所に案内します。このとき、横須賀製鉄所の首長として正式に雇用契約が結ばれました。
当初、全権団の中には、若いヴェルニーを見て不安を感じるものもいましたが、非凡な才能と手腕を目の当たりにしたことにより、駐日フランス大使ロッシュの推挙に間違いがないことを確信しました。
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近代工業の基礎を作る |
フランスでの用務を済ませたヴェルニーは、慶応2年(1866年)4月25日に日本に戻りました。
以後のヴェルニーは、日本にいた約10年間に横須賀製鉄所の首長として、さまざまな業績を残しました。ヴェルニーらによる欧州のさまざまな技術・文明がもたらされた横須賀製鉄所の建設は、日本が先進国として、製鉄、造船、工作機械などの分野で世界を牽引したその第一歩となりました。
施設の建設には、日本では初めてメートル法が採用されました。また、当時は渡りの職人が一般的でしたが、熟練の職人が他に行かないように奨励給を制度化しました。さらに、作業時間、休日など、詳細な雇用規則も作成し、近代的工業簿記の導入など、のちの横須賀海軍工廠へと発展する経営の基礎は、ヴェルニーの指導により確立されたといえます。
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造船以外の分野でも活躍 |
横須賀製鉄所の経営は、江戸幕府倒幕後の明治新政府へも引き継がれ、大蔵省の所管となりました。その後、民部省、工部省、海軍省へと所管がうつり、名称も横須賀製鉄所から、横須賀造船所へと変わりました。
ヴェルニーの指揮の元、観音崎や品川などに灯台が建築され、横須賀造船所初の国産軍艦「清輝」などが建造されました。
そのほかにも、レンガの製造、近代的な建築、水道工事など、数々の功績を残し、明治9年3月に日本をあとにします。
明治政府はその功績をたたえ、明治天皇への謁見を許し、勅語を与えました。
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71歳で亡くなりました |
フランスへ帰国したヴェルニーは、海軍関係の仕事に従事しました。その後、鉱山経営を営み、1908年に故郷オブナで息を引き取りました。享年、71歳でした。 |
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