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 小栗上野介忠順

かつては徳川家康に仕えた旗本
小栗上野介胸像
小栗上野介胸像
 小栗上野介忠順は、文政10年(1827年)に生まれました。通称は、剛太郎や、又一(またいち)と呼ばれていました。
 小栗家は、三河以来の幕臣で、二千五百石の旗本でした。又一という名は、代々の襲名で、先祖の小栗忠政が徳川家康に従って転戦をしていたとき、「また、首をひとつ取ってきたか」といわれたことから、又一と名乗ったといわれています。
 12代目になる小栗忠順は、のちに上野介を名乗るようになります。

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遣米使節団で活躍
咸臨丸
咸臨丸
 小栗忠順は万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准のために幕府が遣米使節団を派遣しました。そのとき、大老の井伊直弼(いいなおすけ)に目付役(めつけやく、監視役のような職)として抜擢され、遣米使節団の一員として渡米しました。そのとき、34歳でした。
 小栗中順は、日米修好通商条約の批准のほかにも、日米通貨の交換レートの検証など、対米交渉で力量を発揮し活躍しました。
 帰国すると、三百石の加増が認められ、万延2年(1861年)には勘定奉行に任命されました。勘定奉行は幕府の財政の運営にあたる重要なポストのひとつです。

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横須賀製鉄所の建設
小栗上野介胸像
小栗上野介胸像
 日本国内では、開国派と、攘夷派が対立する中にあって、小栗忠順は製鉄所(造船所のこと)建設の必要性を説き、幕府の財政が逼迫している折にもかかわらず、強行な反対にも押し流されずに、その計画を推し進めていきました。
 ついに建設計画は決定され、その任務は、フランス公使ロッシュや、技師ヴェルニーに託されることとなりました。小栗中順はロッシュと共に、横須賀湾や、長浦湾の調査をしたともいわれています。
 慶応元年(1865年)には、横須賀製鉄所の起工式が行われました。
 横須賀製鉄所は江戸幕府崩壊とともに、明治新政府によって引き継がれ、明治4年(1871年)に横須賀造船所に改名され、さらに海軍造船所となり、横須賀海軍工廠へと発展しました。
 のちに、この判断が、横須賀の発展や、日本の近代化に大きな影響をもたらすことになりました。横須賀製鉄所が建設されたのは、時代の動向の結果ともいえますが、横須賀製鉄所建設の生みの親ともいえる多くの人々の代表的な人物となりました。

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新政府軍により斬首
烏川河原石
烏川河原石
 慶応4年、将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は大政奉還をし、新政府が発足しました。
 将軍徳川慶喜が、鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争の始まり)に敗れ、大阪から江戸に帰ると、小栗中順は新政府と最後まで戦うべきだと主戦論を強行に主張しました。そのため、江戸城で将軍よりお役御免を申し渡されてしまいました。
 やむなく、小栗中順は自分の領地のあった上野国権田村(現在の群馬県倉渕村)へ退き、東善寺に仮住まいをしていました。
 しかし新政府は、徹底抗戦を強行に主張した小栗中順を許しませんでした。小栗忠順と3人の家来は烏川の河原で斬首されてしまいました。翌日には、長男の小栗忠通も従者3人と共に高崎で斬首されてしまいます。小栗上野介忠順、42歳でした。

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小栗上野介忠順のお墓
小栗上野介胸像
小栗上野介胸像
 小栗上野介忠順のお墓は、小栗家の菩提所で、仮住まいをしていた東善寺にあります。現在は群馬県の文化財に指定されています。
 小栗忠順が斬首された烏川のほとりには、『偉人小栗上野介、罪なくして此所に斬らる』と彫られた碑が建っています。

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