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 ウィリアム・アダムス(三浦按針)

日本名は三浦按針
ウィリアム・アダムス
ウィリアム・アダムス
 ウイリアム・アダムスは、日本名を三浦按針といいます。
 慶長5年(1600年)、日本に初めてやってきたイギリス人です。
 渡来した場所は、豊後国(現在の大分県)臼杵湾佐志生、オランダ船リーフデ号の乗組員24人のうちの1人として、2年に及ぶ後悔の末にやってきました。

子供のころから海と船に囲まれた環境
 1564年、イギリスのケント州ジリンガムに生まれました。
 父親は船乗りのジョン・アダムス。ジリンガムがメドウェイ川河口に位置し、海軍基地で造船の町でもあったチャタム港に近いことから、海や船には子供のころから憧れを抱いて育ったのだと思われます。
 12歳で、ロンドン郊外のライムハウス造船所に奉公しました。

イギリス海軍に参加
 天文学、数学、幾何学、造船技術、航海術、砲術などを学び、12年後に自分で設計したリチャード・ダフィールド号(120t)の艦長としてイギリス海軍に加わりました。
 無敵艦隊と称される世界最強を誇るスペイン艦隊がイギリスを攻撃し、フランシス・ドレイク提督率いるイギリス艦隊と激しい戦いが始まりました。ウィリアム・アダムスは補給を主任務としながらも、戦闘に参加し活躍をし、無敵艦隊撃退に貢献しました。
 新教国同士のオランダを支援する、旧教国スペインへの挑戦でした。

北極圏まで行くことに成功
 翌年、イギリス海軍を退いたウィリアム・アダムスは、バーバリー貿易会社に勤務し、メアリー・ヒンと結婚して2人の子供を得ました。このときが、ウィリアム・アダムスにとって、もっとも平穏な時期だったといえるでしょう。
 しかし、海の男の魂は冒険を求め、5年後には北東航路開拓の探検隊に航海長として参加し、北極圏まで達することに成功しました。7つの海を制するスペイン、ポルトガルに妨害されず、東洋への航路を発見するためで、東洋諸国との貿易を望む産業資本の強い要請によるものでした。

オランダから船団を率いて出向
ウィリアム・アダムス
ウィリアム・アダムス
 1598年、オランダが東洋への遠征隊を派遣するという情報を耳にし、ウィリアム・アダムスは会社を辞めオランダへ行き、船団の航海長となることに成功しました。オランダ側も、彼のような人材を必要としていました。
 6月、5隻のセンダンがロッテルダムを出向しました。旗艦ホープ号(希望)、ヘローフ号(信仰)、リーフデ号(慈悲)、トラウ号(信頼)、ブライデ・ボートスハップ号(幸運)の5隻です。司令官はヤコブ・マフ、ウィリアム・アダムスは旗艦ホープ号に乗り込み、弟のトーマス・アダムス、友人のティモシー・ショッテンもいました。
 荷主の都合で出航が予定より1ヶ月も遅れ、頼りとする北からの季節風が終わろうとしており、不安を抱えての出航となりました。

悲惨な航海
 アフリカ大陸の西岸に沿って南下したものの、強い逆風に悩まされ、激しい暑さも加わり、赤道へ達するまでに病人が続出しました。南アメリカ大陸へ向かうころには、司令官をはじめ、多くの者が命を落としました。
 副司令官シモン・デ・コルデスが旗艦に移り、ウィリアム・アダムスはリーフデ号に移って航海を続けましたが、食料も不足していました。南アメリカ諸国はスペイン、ポルトガルの支配下にあり、寄港しての食料調達は困難でした。無事に上陸して略奪しても、逆襲に遭いトーマスたちの命は失われました。
 南アメリカ最南端のマゼラン海峡に着いたときには、ペンギンまで食べなければならず、それさえも捕獲不能となり長い越冬の間には、さらに多くの者が飢え死にしました。
 トラウ号、ブライデ・ボートスハップ号はスペイン艦隊に拿捕され、ヘローフ号は途中ではぐれてロッテルダムに帰還し、残った2隻で太平洋横断を目指しましたが、途中でホープ号も沈没してしまい、リーフデ号だけが日本を目指すことになりました。

ついに日本に漂着
 慶長5年3月、佐志生黒島沖に漂着したリーフデ号は、見るも無残なありさまで、マストは折れ、帆も破れ、110名の乗組員のうち、生存者は24名、歩行可能な者はウイリアム・アダムスも含めてわずか6名でした。
 臼杵藩主太田重正は、ウィリアム・アダムスのを訪問し、その目的が交易にあると知り、大阪城の徳川家康に知らせました。
 通訳には、ポルトガル宣教師が当たりました。

徳川家康はリーフデ号の大砲を戦に利用
 ウィリアム・アダムスの漂着した時期、場所は、その後の運命に大きな影響を与えました。6ヵ月後には関ヶ原の合戦が起こります。
 徳川家康はリーフデ号の積荷に多くの大砲があるのを知り、アダムスにも砲術の知識があることを知ると、すぐにリーフデ号を浦賀へ回航させました。6月には会津征伐、9月には関ヶ原の合戦へアダムスを帯同させ、大砲を活用しました。
 一方の豊臣側の西軍は、ポルトガルから大砲を購入し使用していました。
 豊臣V.S.徳川の戦いは、スペイン&ポルトガルのカトリック旧教国V.S.イギリス&オランダのプロテスタント新教国との戦いでもありました。

三浦按針の誕生
ウィリアム・アダムス
ウィリアム・アダムス
 征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた徳川家康は、日本橋小田原河岸(のちの按針町)に屋敷を与えました。海外の情報、数学、幾何学、天文学などの知識を吸収しました。
 徳川家康は宣教師による布教と抱き合わせの貿易に危惧を抱いていたため、ウイリアム・アダムスの意見を取り入れ、朱印船復活や、輸入品の一手買い受け組織、糸割符仲間を設けました。
 一方で旧教国側は、ウィリアム・アダムスへの憎悪を募らせていきました。
 大御所となった徳川家康は、相変わらずウィリアム・アダムスを重用し、慶長10年には相州三浦郡逸見に二百五十石の知行を授け、三浦按針と名乗らせました。町名主の娘、ゆきとの結婚も勧めました。
 洋式軍艦の建造も命じ、伊豆の伊東で2隻のスクーナー型帆船を進水させ、沿岸の測量や海図作成を行いました。

貿易で活躍
 慶長14年、肥前平戸にオランダ船が入港しました。
 三浦按針は宗教と交易の完全分離を説き、徳川家康との間を取り持って朱印状を取り付け、平戸に商館を開かせました。
 慶長18年にはイギリス船も渡来し、三浦按針の尽力により朱印状を取得し、同様に平戸に商館を開かせました。
 このとき、徳川家康は三浦按針の帰国を許しましたが、イギリス船には乗りませんでした。司令官ジョン・セーリスと折り合いが悪く、命を奪われるのを警戒したからでした。商館長リチャード・コックスの手記によると、三浦按針がなにかにつけて日本の利益を優先させたため、折り合いが悪くなったのだと書かれています。

晩年は活躍の場を失う
ウィリアム・アダムス
ウィリアム・アダムス
 大阪の陣でも、三浦按針の大砲は利用され、大阪城落城に貢献しました。
 元和2年(1616年)、徳川家康の死と共に活躍の場は失われてしまいました。国内から戦がなくなり、徳川秀忠は鎖国を行いました。
 そして、平戸で56歳で亡くなりました。在日20年、故郷に帰ることはありませんでした。

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