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永福寺跡


永福寺跡

バス停泉大塔宮下車 徒歩8分
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永福寺跡
永福寺跡

 鎌倉の歴史を考えるうえでは、とても重要な場所なんですが・・・。訪れる人もほとんどいないし、観光に来ている人でも素通りしてしまうことが多い場所です。国指定史跡になっているくらいなので、重要さがわかると思います。だけどみんな、素通りしてしまう場所です。
 室町時代以降は完全に消え失せたので、幻の寺なんて呼ばれたりすることもあります。1967年(昭和42年)から土地の買収を行い、史跡公園として整備が進められています。
 1189年(文治5年)、源頼朝は奥州征伐で藤原氏が建てた中尊寺や毛越寺を見て、とても感心しました。噂では耳にしていたものの、実際に見てみたら、想像以上に壮麗で大規模なものでした。戦に勝っても、奥州の繁栄ぶりを見て大きな衝撃を受けたようです。源義経、藤原泰衡(ふじわらやすひら)を始めとして、数万の怨霊供養のため、中尊寺大長寿院をマネて永福寺を建てることにしました。
 1192年(建久3年)、本堂が完成し、続いて阿弥陀堂・薬師堂が建てられ三堂が揃いました。三堂前面には広い苑池(えんち)が造られ、多宝塔・鐘楼(しょうろう)・回廊・別当坊・供僧坊などが建ち並び、中の島や釣殿(つりどの)もあり、ヤナギ、サクラ、ウメなどの木々が植えられた荘厳な寺院でした。

写真撮影:2009年02月17日

永福寺跡

バス停泉大塔宮下車 徒歩8分
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永福寺跡
永福寺跡

 案内板に書かれてあった、永福寺の地図です。とても大きな寺院だったことがわかります。
 鎌倉時代の歴代将軍、室町時代の鎌倉公方なども訪れました。足利千寿王(後の義詮)が北条高時を滅ぼした後、しばらくの間ここの別当坊で暮らしました。足利尊氏が北条時行を討った際は、この地で武士の賞罰を行いました。
 1405年(応永12年)、火災に遭ってからはすっかり衰えてしまい、室町時代の末期には廃絶してしまいました。
 鎌倉時代の『海道記』などによると、本堂は二十軒の瓦葺きで、両翼を張った姿は宇治の平等院に似ていたそうです。二階堂の地名は、ここからきています。
 発掘調査によって、本堂の二階堂の建物跡とみられる遺構が出土しました。本堂の正面は、間口19m、奥行き18mありました。礎石の直径は1.65mあり、上面には柱が乗せられるように平らに削られ、柱の直径は約60cmもあった大寺院でした。本堂から廊跡、阿弥陀堂や薬師堂とみられる脇堂、苑池などが確認されました。寺の名前が入った瓦、仏具、教筒など、多数の遺物が発見されています。

写真撮影:2009年02月17日

永福寺跡

バス停泉大塔宮下車 徒歩8分
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永福寺跡
永福寺跡

 史跡の目印となる石碑。史跡巡りをする際、石碑巡りをしてみても良いのではないでしょうか。大正時代、鎌倉町青年会が建てた石碑です。80個くらい建ってるんじゃなかったかな?オールコンプリートは不可能な数だよー。
 大正時代の石碑なので、日本語でもかなりわかりづらいです・・・。字体も旧字体だし、カタカナだし。もっと国語の授業をしっかり受けておくべきでした。そのまま書き写すと、こんな感じです。意味は自分で調べてね。
 永福寺舊蹟。
 永福寺世ニ二階堂ト稱ス
 今ニ二階堂ナル地名アルハ是ガタメナリ
 文治五年 頼朝奥州ヨリ凱旋スルヤ 彼ノ地大長壽院ノ二階堂ニ擬シテ 之ヲ建立ス
 輪奐壮嚴洵ニ無雙ノ大伽藍タリキト云フ
 享徳年間關東管領ノ歿落セル頃ヨリ後 全ク頽廢ス
 大正九年三月建之 鎌倉町青年會

写真撮影:2009年02月17日

永福寺跡

バス停泉大塔宮下車 徒歩8分
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永福寺跡
永福寺跡

 永福寺跡って言っても、何もないんだよねー。フェンスに囲まれているから、どうなっているのかもわからないし。私が訪れた時は、単なるヤブだったんですが・・・。現在は整備されて、公園になっています。建物の復元は行わないようですが、規模の大きな寺院なのでちょっと無理かな。
 案内板には英語の説明も書いてあったので、写しておきます。英語の意味は・・・、私にはよくわかりません(^^ゞ
 National Historic Sites The remains of Yohfukuji Temple as designated on June 19, 1967
 Yohfukuji is a Buddhist temple founded by Yoritomo Minamoto copying Nikai-Daidoh-Daichojuin located in Hiraizumi as he had been deeply moved by its solemn appearance.
 The temple was dedicated to the war dead of Ohshuu battle such as Yoshitsune Minamoto, Yasuhira Fujiwara and other.
 The construction of the the temple began in 1192.
 Kamakura city started its excavation research on the site since 1981 toward developing it as the historical site and confirmed the remains of the central hall(doh) and the garden with a large pond in it.
 The halls(doh) are laid out symmetrically with Nikai-doh in the center and two side-halls(doh), Yakushi-doh to the North and Amida-doh to the South.
 These halls make up a cathedral of 130 meters long from South to North with its front facing the East and a pond of more than 100 meters long from South to North was found existed on its front side.
 Kamakura city started to buy land as of fiscal year 1967 and from now on, plans to be engaged also in historic park development projects.

写真撮影:2009年02月17日
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