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大宝寺


本堂

JR鎌倉駅下車 徒歩10分
地図
大宝寺
本堂

 山号を多福山(たふくさん)といい、日蓮宗のお寺です。
 室町時代の1399年(応永6年)、佐竹義盛(さたけよしもり)が出家し、屋敷のそばに寺を建て多福寺と名付けました。それが大宝寺の始まりです。その後廃寺となりましたが、1444年(文安元年)、本覚寺を開いた日出上人が再興し、多福寺の名を山号として残し、寺名を大宝寺に改めました。
 本堂には、本尊の三宝祖師(さんぽうそし)、日蓮上人坐像、日出上人像、新羅三郎義光像、出世大黒天像、鬼子母神像が祀られています。

写真撮影:2007年02月28日

大多福稲荷大明神

JR鎌倉駅下車 徒歩10分
大多福稲荷大明神
大多福稲荷大明神

 新羅三郎義光と関係の深い多福明神社です。なぜか屋根板が剥がされています・・・
 新羅三郎義光は、1083年(永保3年)、後三年の役のときに、兄の源義家と力を合わせて敵を平定し、甲斐守になっています。そして鎌倉に館を建てて住んだといわれています。
 後三年の役で大功を立てることができたのは、日頃から信仰する守護神である多福大明神のおかげだと信じ、館のそばに多福神社を建てました。その後、大町の八雲神社に合祀されたこともありましたが、1499年(明応8年)、松葉ヶ谷妙法寺の日証上人によって元の場所に移しました。
 この多福大明神は、大宝寺の守り神として、また開運、勝利の神として祀られていました。

三浦半島観光地図:鎌倉市大町・八雲神社

写真撮影:2007年02月28日

佐竹屋敷跡

JR鎌倉駅下車 徒歩10分
佐竹屋敷跡
佐竹屋敷跡

 大宝寺のあるあたりは、佐竹屋敷跡といわれています。新羅三郎義光の子孫で、鎌倉時代には常陸の国(現在の茨城県)に勢力を広げていた、佐竹秀義(さたけひでよし)以来、佐竹家代々の居住地と言われています。
 後ろの山は、佐竹山といい、山の形が扇の形に似ていて、中に3本のうねがあります。左右を合わせて5本骨の扇に見えることから、佐竹家の家紋はこれをかたどって作ったものだといわれています。

写真撮影:2007年02月28日

慰霊碑

JR鎌倉駅下車 徒歩10分
慰霊碑
慰霊碑

 たくさんの石塔に囲まれた慰霊碑です。
 「報国殉難戦死者之霊」と刻まれた石塔が1基、「大震災火災横死者之霊」と刻まれた石塔が1基あります。
 第二次世界大戦で亡くなった戦死者のための慰霊碑でもあり、関東大震災で発生した火災によって亡くなった人たちのための慰霊碑のようです。

三浦半島観光地図:1923年・関東大震災

写真撮影:2007年02月28日

新羅三郎義光の墓

JR鎌倉駅下車 徒歩10分
新羅三郎義光の墓
新羅三郎義光の墓

 新羅三郎義光の墓と伝えられている宝篋印塔です。実際には、後世に建てられた供養塔だと考えられます。
 新羅三郎義光は、源氏内の勢力争いの中心的人物でもありましたが、その子孫は源氏復興に功績を立てました。武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏なども、新羅三郎義光の子孫にあたります。
 滋賀県大津市園城寺町にも、お墓があります。
 生誕地は河内源氏の本拠地、河内国石川郡壷井(現在の大阪府羽曳野市壷井)です。河内源氏の氏神様の壷井八幡宮と並ぶ壷井権現に、祖父源頼信、父源頼義、兄源義家、兄源義綱と共に祀られています。

写真撮影:2007年02月28日

やぐら

JR鎌倉駅下車 徒歩10分
大宝寺・やぐら
やぐら

 鎌倉特有のお墓、やぐらです。鎌倉や、その周辺の土地だけに見られるものですが、室町時代以降になると姿を消します。
 鎌倉では、まわりの山腹を掘った中世の墓を「やぐら」と呼んでいます。武士や僧侶の供養のために葬ったお墓としての役割を果たしています。土地の狭い鎌倉には、墓所を作るだけの土地を確保することができなかったなどの理由によります。
 内部には、五輪塔、宝篋印塔、板碑などが納められているのが普通です。
 火葬された骨は、常滑(とこなめ)や瀬戸の壺に入れられることが多いです。
 現在は、倉庫や物置に転用されていることもあります。

写真撮影:2007年02月28日
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