清泉小学校の西隅に「大蔵幕府跡」の石碑があります。この石碑が幕府の中心地で、現在も地名に西御門(にしみかど・横浜国立大付属鎌倉小中学校のあたり)とあるように、四方に門があり、それぞれを東御門、西御門、南御門、北御門と呼ばれていました。
1180年(治承4年)、源頼朝は鎌倉に入り、この場所に平安時代の貴族と同じように寝殿造り(しんでんづくり)の屋敷を建てました。その後、全国を統一し、1192年(建久3年)に征夷大将軍になるまでの間、侍所(さむらいどころ)、公文所(くもんじょ)、問注所(もんちゅうじょ)などの役所を作って幕府の形を整えました。
1225年(嘉禄元年)、北条泰時が若宮大路の宇津宮辻子(うつのみやずし)に幕府を移すまでの間、武家政治の中心地となりました。
源頼朝は石橋山の戦いに敗れ、房総の地に逃れ、そこに源氏再興の拠点を築こうとしますが、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)の進言により、鎌倉に拠点を築くことになりました。
はじめ、源頼朝は亀ヶ谷(かめがやつ)にある父の源義朝の旧宅に邸宅を構えるつもりでしたが、岡崎義実(おかざきよしざね)が源義朝の菩提を弔う堂宇を建てており、土地も狭いことから、大蔵のこの地を選びました。ここは源頼義の住居跡でもありました。
源頼朝は館の造営を急がせ、山の内の首藤兼道(すどうかねみち)の邸宅を移しました。首藤邸は、正暦年間に安倍晴明が建立して以来、一度も火災に遭ったことのない目立たない家でした。
1180年(治承4年)10月に工事が始まり、12月には完成しました。1191年(建久2年)、1213年(建保元年)、1219年(承久元年)、3度の火災に遭いました。1225年(嘉禄元年)、宇津宮辻子に幕府は移転します。
三浦半島観光地図:鎌倉市雪ノ下・西御門の石碑
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