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鎌倉市雪ノ下史跡巡り・観光名所案内


鎌倉市雪ノ下の歴史

鎌倉市雪ノ下

 

 三浦半島の基部、古鎌倉湾の沖積地に位置します。周辺は大臣山を中心とした谷あい地です。
 縄文式土器片が採集されています。
 大倉幕府跡、頼朝持仏堂の法華堂跡、有力御家人邸跡、頼朝が亡父義朝の菩提を弔うために造営した大御堂勝長寿院跡、鶴岡八幡宮供僧坊跡、鎌倉七口のひとつ巨福呂坂の旧道などが残っています。

 鎌倉時代から見られる地名で、相模国鎌倉郡の雪下でした。
 鶴岡八幡宮の境内になり、八幡宮の北西にある25坊の所在地(北谷・南谷・東谷・西谷)のうち、東谷の南部が起源と考えられ、その後、東谷全体も雪下と称されるようになり、時代が下がるにつれて雪下の示す地域は拡大していきました。
 『吾妻鑑』の建保元年正月4日条に「若宮別当雪下本坊」とあり、将軍源実朝は若宮別当定暁の坊に入御しています。
 『吾妻鑑』承久元年正月27日条では、鶴岡八幡宮別当公暁が将軍源実朝を殺害した時、武士たちが「件(公暁)雪下本坊」に向かいましたがその姿がなく、公暁は「後見備中阿闍梨之雪下北谷宅」にいたといいます。そのため、「備中阿闍梨之雪下屋地」は承久元年正月30日に没収されています。
 宝治2年9月26日、「鶴岡別当法印雪下本坊」で鞠会が行われ、10月6日にも将軍藤原頼嗣がにわかに「鶴岡別当法印雪下坊」に入御し鞠会が行われています。
 正嘉2年正月22日には火事で焼けた「雪下別当坊」の上棟の儀が行われ、弘長元年9月3日には危篤の弁法印審範の「雪下北谷宿坊」で北条時頼が最後の体面をしています。
 聖教の書写活動も行われ、「雪下禅室」、「雪下遍照院」、「雪下別当坊」、「雪下今宮別当坊」、「雪下禅房」などがみられます。
 元徳2年9月13日の関東御教書には「鶴岡八幡宮社内并近辺可加禁制条々・・・、雪下谷々在家人居住事」とあり、谷々に一般の人々が居住しはじめました。
 若宮大路周辺からは、日常用具である土鍋・かわらけ・木製用具などが発掘されています。

 南北朝時代の貞治元年12月27日の鎌倉公方足利基氏禁制写によれば「雪下釘貫内乗馬事」などが禁止されており、以降、至徳3年11月13日には鎌倉公方足利氏満の禁制が、永享4年11月15日には鎌倉公方足利持氏の禁制が出されています。
 応安4年3月8日の関東管領上杉能憲奉書写に「雪下新宮神主職事」とあり、大伴時国が補任されています。この新宮は宝治元年4月25日に鶴岡八幡の乾(北西)の山麓に後鳥羽院の御霊を勧請したもので、それがこの地にあったことがわかります。永享3年8月24日の権僧正尊運諸職注文写に「門跡一具諸職注文・・・一、雪下 新宮事」とあり、代々鶴岡八幡宮別当に相伝されていたことがわかります。

 室町時代になると、応永23年〜応永24年の上杉禅秀の乱の舞台となり、当時は「雪下合戦」と呼ばれ、活躍した武士たちは軍忠状を作成しています。当時の軍勢の動きは「同(応永23年)十二月馳加河村城仁以来、在々所々御陣致宿直、瀬谷原至于雪下」と記されています。上杉禅秀は、「同(正月)十日禅秀子、息宝性院快尊法印の雪下御坊に籠り」自害しました。
 文明18年、禅僧万里集九は山内、雪下から扇ガ谷に行っており、翌19年、尭恵も当地で歌を詠んでいます。
 天文6年7月23日、北条氏綱・氏康連署判物では武蔵国足立郡佐々目郷を鶴岡八幡宮に安堵しています。その宛所は「<雪下>院家中」となっています。天文11年4月10日、由井浜の大鳥居が建立されますが、その時一切経を転読した僧侶の中にも「雪下の院家衆」が見られます。
 天正15年12月13日の建長寺寺領坪帳案に「<大統地替>四十八坪 同所(釈迦堂) 百四十四文 同(当年貢) 百文<雪下>弥四郎作」とあり、当地の弥四郎なる者が建長寺領の作人となっていたことがわかります。

 江戸時代の村名で、鎌倉郡の雪ノ下村でした。
 寛永10年・元禄10年・幕末いずれも鶴岡八幡社領と幕府領です。
 村高は、『元禄郷帳』では15石余と永134貫余、『天保郷帳』では15石余と永125貫余、『旧高旧領』では15石余と永138貫余。
 鶴岡八幡社への天正19年徳川家康寄進状写に「百弐拾五貫三十文 雪下」とあります。江戸幕府も鶴岡八幡社に対して庇護が厚く、元和8年徳川秀忠が再造営を命じ、寛永3年までは諸堂社を造営したのをはじめ、江戸期を通じて幕府の手によって修復が繰り返されています。

 『新編相模』によれば、江戸から13里余、東西13町許・南北16町程、家数145軒のうち45軒は鶴岡社人、神社に小名大蔵町の鎮守大蔵稲荷社など、寺院に真言宗松源寺、戸塚宿・藤沢宿・三浦郡小坪村・江の島・武州金沢へ人馬継立をしており、「旅店を開き生業の資とする家多し」とあります。物見遊山客相手に木版刷の鎌倉絵図を売る者などもいました。
 西の総門外鶴岡八幡社領内に幕府領がると記されています。慶長8年、徳川家康が鶴岡八幡社参詣時の休憩所敷地として上知、造営はなく幕府領となってその替地は扇ガ谷村に与えられたと伝えられています。

 明治元年、神奈川府を経て、神奈川県に所属しました。
 明治維新に際して鶴岡八幡社の受けた打撃は甚大で、神仏分離にともなう廃仏毀釈により、薬師堂・仁王門・護摩堂や仏像・仏具類など社地内から仏教的色彩のあるものは一掃されました。12院の供僧および社僧はことごとく還俗しました。
 『皇国地誌』によれば、税地は79町8反余のうち田3町7反余・畑32町1反余・宅地8町5反余・山林34町9反余、二階堂村・大町村・小町村・扇ガ谷村などに飛地があります。明治9年は戸数158、人口684、人力車17、民業は「農業ヲ専ラトスルモノ七十戸、商ヲ営ムモノ五十戸、工匠二十戸、雑業十六戸」とあります。
 明治22年、東鎌倉村の大字・雪ノ下となりました。
 明治24年、戸数140、男374人・女158人。
 明治25年、神奈川県師範学校が横浜から移転し、東鎌倉村立尋常小学校は師範学校代用付属となりました。
 明治27年、鎌倉町の大字となりました。
 明治45年、戸数290、人口1312。

 大正12年、関東大震災の被害は戸数432のうち全壊229、半壊127、全焼76、半焼2、死者37。鶴岡八幡宮では楼門・拝殿・白笹宮拝殿が全壊、師範学校・付属小学校校舎が全壊しました。
 大正14年、世帯数456、人口2545。

 昭和3年、町立国宝館が開館し、鎌倉地方の美術品を中心に公開しました。
 昭和14年、鎌倉市の大字となりました。
 昭和18年、乱橋材木座飛地・極楽寺飛地の一部を編入しました。
 昭和25年、世帯数937、人口3968。
 昭和26年、鶴岡八幡宮境内に県立近代美術館が開館しました。
 昭和35年、世帯数1121、人口4589。
 昭和40年、通称御谷の鶴岡八幡宮供僧坊旧跡に宅地造成計画が起こり、これに反対した市民運動は翌41年制定の古都保存法誕生の契機となりました。
 昭和41年、鎌倉市の町名となりました。一部が小町、雪ノ下となりました。1丁目は世帯数406・人口1519、2丁目は世帯数185・人口654、3丁目は世帯数208・人口901、4丁目は世帯数147・人口547。
 昭和42年、鶴岡八幡宮境内が国史跡の指定を受けました。
 昭和43年、一部が西御門になりました。
 昭和44年、鎌倉七口のひとつ旧巨福呂坂切通が国史跡の指定を受けました。

 広い境内を持つ鶴岡八幡宮があり、鎌倉観光の中心地です。観光産業が中心の街です。もともとは鶴岡八幡宮背後の地区を雪ノ下と言っていましたが、次第に拡大されていきました。
 雪ノ下の地名の由来は、吾妻鏡や鶴岡八幡宮にある古い書物から。1191年(建久2年)の降雪で、雪見に訪れた源頼朝が佐々木盛綱らに、夏の食事に雪を出すため、雪を貯蔵しておく雪屋(ゆきや)を鶴岡八幡宮の裏手あたりの今宮(いまみや)に作って保存していたことに由来します。
 また、このあたりにはユキノシタという植物が多く生えていたことから。
身近な植物図鑑:ユキノシタ

地名の由来

   源頼朝が盛夏でも雪を賞味するため利用した氷室が、鶴岡八幡宮北側にあったと言われており、それが次第に広まって地名になったと言われています。
 
山ノ内 西御門 二階堂
扇ガ谷 雪ノ下  
小町 大町 浄明寺

筋違橋


筋違橋 JR横須賀線の鎌倉駅です。
 JR鎌倉駅は小町1丁目ですが、江ノ電鎌倉駅は正確には御成町1番地だったりします。紛らわしい・・・

丸型郵便ポスト


丸型郵便ポスト 今では貴重になった、丸型郵便ポストです。
 懐かしくて嬉しくなりますね。この重厚感がたまりません。

大蔵幕府跡


大蔵幕府跡 現在では石碑しか残っていませんが、源頼朝が征夷大将軍に任命され、この地に鎌倉幕府を開きました。

西御門の碑


西御門の碑 大蔵幕府の西の門に当たるのが、この西御門の石碑のあたりになります。
 西御門ですが、現住所は西御門じゃなくて雪ノ下。

鶴岡八幡宮


鶴岡八幡宮 鎌倉といえば、鶴岡八幡宮!
 武士の町鎌倉の中心として機能していました。明治時代までは、鶴岡八幡宮寺と呼ばれていました。

白旗神社


白旗神社 鶴岡八幡宮の写真が多いため、東側エリアを白旗神社として別ページにして作成しました。
 鶴岡八幡宮境内にある白旗神社です。

巨福呂坂切通し


巨福呂坂切通し 七切通しのひとつ、巨福呂坂切通しです。
 昔の巨福呂坂切通しは、個人の敷地内になってしまうため、一部しか通ることができません。

青梅聖天社


青梅聖天社 巨福呂坂切通しの途中にある小さなお社です。
 大聖歓喜天とも呼ばれる、双身歓喜天が祀られています。

志一稲荷


志一稲荷 鶯ガ谷にある志一稲荷です。
 僧侶の志一が可愛がっていたキツネを供養するために立てた稲荷社です。

鉄ノ井


鉄ノ井 鎌倉十井のひとつ、鉄ノ井です。
 扇ガ谷の新清水寺にあった鉄観音像の首が出てきたといわれています。

石塔と石仏


石塔・石仏 雪ノ下地区で発見した、石塔と石仏です。
 道標、庚申塔など。

魚三商店


魚三商店 鎌倉の干物屋さんとして有名な、魚三商店。
 店の前で魚の天日干し干物を作っています。

源平池


源平池 鶴岡八幡宮の境内にある大池、源平池。
 東の源氏池、西の平家池に分かれています。源氏池には旗上社やぼたん園、平家池には県立近代美術館があります。

若宮大路


若宮大路 鶴岡八幡宮の正面の道路、若宮大路。
 観光客が楽しめるような商店がたくさん並んでいます。小町通りと並ぶ、商店街です。

鶴岡八幡宮の朱印


鶴岡八幡宮の朱印 鶴岡八幡宮で書いてもらった朱印です。
 オリジナル朱印帳もあり、ピンク色の巫女さんの朱印帳は人気があります。

鶴岡八幡宮の結婚式


結婚式 鶴岡八幡宮の舞殿で行われる神前結婚式。
 多くの人が憧れる結婚式のひとつです。

鶴岡八幡宮の紅葉


紅葉 鶴岡八幡宮は紅葉の名所というわけではありませんが、美しい紅葉が見られるポイントがいくつかあります。

 
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