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鎌倉市二階堂史跡巡り・観光名所案内


鎌倉市二階堂の歴史

二階堂の歴史

 

 三浦半島の基部になり、滑川の上流の北西にあります。太平山・鷲峯山などの低丘陵に囲まれた谷あい地です。
 永福寺跡には泉池や建築の礎石が残っています。山腹には中世墳墓のやぐらが多数散在し、覚園寺裏山にある百八やぐら群は、窟内にレリーフの五輪塔などの供養塔が彫られています。

 鎌倉時代から見られる地名で、相模国鎌倉郡になります。
 文治5年8月の源頼朝下文に「鎌倉二階堂鐘供養時」とありますが、永福寺の建立計画が出たのが文治5年12月9日になり、文言などからも検討が必要だとされています。永福寺は建久3年に着工されますが、正月21日に源頼朝が工事の様子を見に訪れ、9月10日には庭石の配置に畠山重忠が活躍し、11月25日に開堂供養が行われています。
 仁治3年8月、京都を出発した『東関紀行』の作者は、「二階堂はことにすぐれたる寺也」と述べています。『海道記』の作者源光行は、「ひがし山のすそに臨て二階堂を礼す、是は余堂の□礫して感難をよびがたし、第一、第二の重櫓には玉のかはら鷺の翅をとばし、両目両足のならび給へし台は金の盤鶴灯をかかげたり」と感嘆の筆で記しています。正応2年3月、『とはずがたり』の作者二条も、ここを訪れています。
 永福寺は、鎌倉幕府・鎌倉府の保護を受け、室町時代の享徳年間まで存在していたことはわかっています。永福寺跡には汀石や中の島などの一部が残り、再建事業が続けられています。
 永福寺の諸坊は、『聖教奥書』には、「弘安二年<卯歳>二月四日、於二階堂真言院書写畢」、『阿字肝心抄奥書』に「于時弘安四年霜月廿日、於鎌倉二階堂真言院北坊書写了」、『伝法灌頂作法奥書』に「正応三年八月十七日、於二階堂松本房及深更令書写了」、『別尊法四奥書』に「正和二年五月一日、於相州鎌倉二階堂亀淵房」などが見られます。寺院としては、『聖教奥書』に「永仁二年六月十五日・・・相模国鎌倉二階堂椙谷勝福寺書写畢」とあり、仏書の書写が盛んに行われていたことがわかります。

 『吾妻鏡』の寛喜3年正月14日条に「二階堂大路」、『聖教奥書』に「同(弘安)五年<壬午>二月九日、於二階堂小路池尻書写之畢」と見える道は、現在の関取橋(大蔵の辻)から永福寺に至る道になります。嘉元3年5月4日、北条宗方が討伐された時にその宿所から出火し、「二階堂大路、□□(薬師かな?)堂谷口」がことごとく焼失したとあります。
 鎌倉時代初期から火事に遭うことが多く、建暦元年11月3日に永福寺の総門と塔一基、承久元年9月22日には「阿野四郎浜宅」から出火し「永福寺総門」あたりまで延焼、寛喜3年10月25日には総門の内門まで類焼しました。

 御家人宅では、『吾妻鏡』の建久3年8月24日条に、「二階堂始被堀池・・・入御于行政之家」とあり、ここの地名を苗字としていた二階堂氏が、これ以前からこの地に居住していました。元仁元年正月4日条にも「隠岐入道行西(二階堂行村)二階堂家」とあり、以降代々相続され、「吾妻鏡」巻首の或記の元弘3年5月27日条には「(二脱かな?)階堂小路以山城美作入道屋形」とあります。

 元弘3年5月、新田義貞は足利尊氏の子千寿王(義詮)とともに鎌倉を攻め落としますが、千寿王は「二階堂の別当坊に御座」しており、建武元年と推定される大塚員成軍忠状には「就中自六月一日至于今、二階堂御所山上陣屋勤仕不退転之条」とあり、千寿王のいた当地の御所の後ろの山上の陣屋に勤仕していたことがわかります。
 政綱と言う者が、曽我乙房丸とともに「二階堂三辻役所警護事、相共勤仕候畢」とあり、警護役終了の履勘状を出しています。
 建武2年8月の中先代の乱平定後、足利尊氏・直義兄弟は「梅松論」に「二階堂の別当に御座有」とあり、千寿王と同じく当地を一時営所としていました。
 建武2年10月20日の三浦和田茂実の着到状によれば「一、十月八日、御方違に二階堂乃東乃らうを警固仕畢」と警固役を勤仕していました。

 『七巻冊子』では、建武元年の末大塔宮護良親王が鎌倉に流されましたが、「大塔宮鎌倉エ御下向二階堂谷ニ土穿ヲ塗置進ラス」とあります。
 『蔭涼軒日禄』の長享2年9月21日条に「二階堂之谷ト云処於今有之云々」とあります。
 天正14年10月29日の鎌倉代官大道寺政繁書出によれば、「二階堂覚園寺」にあてて、覚園寺支配下の百姓の闕落を停止し、還住させる旨を命じています。
 天正12年12月13日の建長寺寺領坪帳案には「九十二坪 二皆(階)堂・杉本下弐百七十六文」とあり、当地の一部が建長寺領だったことがわかります。

 戦国時代、相模国小坂郡の二階堂郷になります。
 天正18年4月日の豊臣秀吉禁制の宛所に「鎌倉二階堂郷中 覚園寺 柄(荏)柄天神 随(瑞)泉寺 西御門 宝成(戒)寺 浄光明寺 以上六ヶ寺」とあり、秀吉は小田原攻めの際に当地を掌握しようとしていました。当時、浄光明寺はこれら6ヶ寺の筆頭にあり、そのほかの寺院に案文が残されています。

 江戸時代には、鎌倉郡の二階堂村になります。大蔵の谷々の中間平坦地に開かれた谷合四ヶ村のひとつです。
 寛永10年・元禄10年・幕末ともに寺社領と幕府領でした。
 村高は、『元禄郷帳』では19石余と永118貫余、『天保郷帳』では14石余と永115貫余、『旧高旧領』では永118貫余。『旧高旧領』には、二階堂村・西御門村・浄明寺村・十二所村の幕府領文を合算した谷合四か村31石余とあります。
 寺社領は荏柄天神社領・東慶寺領・覚園寺領・杉本寺領からなります。
 荏柄天神社は源頼朝が大蔵御所鬼門の鎮守として創建したと伝えられ、江戸時代を通じて鶴岡八幡宮の古材を使って修復が行われました。天正19年の徳川家康寄進状写では、永高19貫200文とあります。
 臨済宗東慶寺領は112貫380文、天正19年の同人寄進状写では二階堂村に86貫60文。
 覚園寺は真言宗・天台宗・禅宗・律宗の四宗兼学で京都泉涌寺末、天正19年の同人寄進状写では永高7貫100文。
 杉本寺は、行基の開基と伝える杉本観音堂の別当で、天台宗小町村宝戒寺末。観音堂への寄進年代は、『記略』が慶長2年、『新編相模』が天正19年、その高はともに貫高ではなく石高記載で5石6斗とします。安政2年の朱印寺社高反別・除地寺院書上によれば、「永二貫七百八拾六文 此高五石二斗壱升 此反別九反四畝弐拾六歩余」とあります。中腹に杉本寺が建っている大蔵山全体が、杉本城址になります。

 『新編相模』では、谷合四か村は江戸から12里余、その東西28町・南北30町、家数133軒のうち二階堂村に45軒、鎮守は熊野社、寺院にはほかに円覚寺領のうち38貫文を配当されている臨済宗瑞泉寺などがあります。
 瑞泉寺には多数の文人が訪れ、太宰春台の『湘中紀行』、安藤東野の『遊相紀事』、山井鼎の『鎌倉紀行』などに寺名があります。

 明治元年、神奈川府を経て、神奈川県に所属します。
 明治2年、明治天皇の勅令によって、護良親王終焉の地という東光寺跡に鎌倉宮を造営しました。
 『皇国地誌』によれば、幅員は東西638間・南北649間、税地は143町9反余のうち、田7町7反余・畑17町2反余・宅地2町3反余・山林114町9反余、雪ノ下村に飛地があり、明治9年の戸数50・人口235、民業は「農業ヲ専ラトスル者三十三戸、農間工商ヲナス者六戸、木挽三戸、薪炭ヲ業トスルモノ三戸」とあります。
 明治22年、東鎌倉村の大字となりました。
 明治24年、戸数42、男134人・女154人。
 明治27年、鎌倉町の大字となりました。
 明治45年、戸数57、人口316。

 大正12年、関東大震災の被害は、戸数106のうち全壊11・半壊19、死者1。このほか寺社の被害は甚大で、堂宇・神宝・仏像・仏具など多数を破損しました。
 大正15年、世帯数95、人口547。

 昭和14年、鎌倉市の大字となりました。
 昭和25年、世帯数342、人口1423。
 昭和35年、世帯数435、人口1631。
 昭和41年、永福寺跡が国史跡に指定されました。
 昭和43年、一部が西御門になりました。
 昭和50年、世帯数877、人口2792。

 鎌倉時代、源頼朝によって建てられた永福寺(ようふくじ)という大きな寺院がありました。現在は基礎石がわずかに残っているだけで、発掘調査が進められています。
 この地に屋敷を構えていた二階堂氏は、陸奥国の須賀川城主、薩摩国島津家の家臣になっています。

地名の由来

   文治5年、源頼朝が奥州凱旋ののち、中尊寺の大長寿堂の二階堂の荘厳さに心を打たれました。源義経・藤原泰衡らの供養も併せて、二階堂を模して永福寺を建立しました。永福寺の本堂を二階堂と言ったことから、この地も二階堂と呼ぶようになりました。
 鎌倉時代に寺院名として数多く記録に見られますが、いつ頃地名になったのかはわかっていません。
 『尊法奥書』には、「建長二年・・・於鎌倉二階堂草案書之」や、「同(建長)五年四月十七日於関東二階堂谷書了、無障金剛尊澄」などでは、地名として確認できます。
 『聖教奥書』には、「弘安二年<卯歳>二月廿九日、於相州鎌倉二階堂萩谷、書写之畢」とあります。
 
山ノ内 今泉台 今泉 横浜市栄区上郷町
西御門 二階堂 十二所
雪ノ下 浄明寺  

理智光寺跡


理智光寺跡 明治時代初期に廃寺になってしまった、理智光寺があった場所です。
 後藤基綱が源実朝を供養するために建てられた寺院です。

護良親王の墓


護良親王の墓 後醍醐天皇の子、護良親王の墓です。みずから兵を率いて戦った武勇の人です。
 宮内庁が管轄なので、途中までしか入ることができません。

永福寺跡


永福寺跡 源頼朝が奥州の中尊寺をマネて作った幻の大寺院、永福寺。
 室町時代に焼失してしまいました。現在、史跡公園として整備されています。

石仏や石塔


石仏・石塔 二階堂地区で発見した、石仏、石塔、庚申塔など。

瑞泉寺


瑞泉寺 夢窓国師が開山の瑞泉寺。庭園が有名な寺院です。
 関東十刹に数えられる寺院でした。水戸黄門の徳川光圀が新編鎌倉志を編纂させたのが、瑞泉寺です。

瑞泉寺庭園


瑞泉寺庭園 夢窓国師が庭園。瑞泉寺境内、本堂の裏側あたりにあります。
 復元された姿は、岩をくりぬいたような穴が開いた不思議な庭園です。

マンホール


マンホール 二階堂エリアで発見した、マンホールの数々。
 鎌倉市では、変わったデザインのマンホールが少ないみたいです。

鎌倉宮


鎌倉宮 明治天皇が建てた神社で、護良親王を奉っています。
 護良親王が監禁された土牢、境内で行われる薪能は有名です。拝観料300円です。

二階堂川の紅葉


紅葉 滑川の支流、二階堂川で見ることができた紅葉。
 川に覆いかぶさるように伸びるモミジは、とても美しかったです。

 
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