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巨福呂坂切通し


巨福呂坂切通し

JR鎌倉駅下車 徒歩10分
地図
巨福呂坂切通し
巨福呂坂切通し

 「きょふくろざかきりどおし」と読んでしまいそうですが、「こぶくろざかきりどおし」と読みます。鎌倉は地名の読み方が複雑で難しい。
 巨福呂坂切通しと書かれた錆び付いた鉄柱がありましたが、はてさて右か、左か・・・。
 化粧坂(けわいざか)を落とした新田義貞軍は破竹の進撃を続け、この巨福呂坂にいたりました。ここを守っていたのは長崎高重で、分倍河原で敗れて以来、日夜鎌倉防衛のために力を尽くしていました。
 新田義貞軍と、長崎高重軍との戦いは5日間続き、剣を交えること80余回もの激戦でしたが、すでに勝機は新田義貞軍にありました。
 長崎高重は最後の戦いを挑む前、東勝寺の北条高時を訪れ別れを告げ、150余騎を従えて巨福呂坂に向かい、討ち死にします。新田義貞軍の山手の大将堀口貞満がここから鎌倉に攻め入りました。
三浦半島観光地図:鎌倉市小町・東勝寺跡

写真撮影:2007年02月28日

巨福呂坂切通し

JR鎌倉駅下車 徒歩10分
巨福呂坂切通し
巨福呂坂切通し

 覗きが趣味なので、左側のトンネルの中を覗いてみた。真っ暗でした(^^ゞ。「巨福呂坂送水管路ずい道」っていうらしい。
 巨福呂坂は山ノ内を経て大船、藤沢へと通じる道で、『吾妻鏡』によれば1240年(仁治元年)、朝夷奈切通しと共に北条泰時が補修したとあります。こうして、北条氏の所領である山内荘と市街地の中心部が短距離で結ばれました。以前からあった道の険しい巨福呂坂を補修したもので、現在の巨福呂坂とは異なります。
 現在の巨福呂坂は明治時代になってから切り開かれたもので、当時の巨福呂坂切通しは、個人の邸内になっているので通り抜けることはできません。

写真撮影:2007年02月28日

巨福呂坂切通し

JR鎌倉駅下車 徒歩10分
巨福呂坂切通し
巨福呂坂切通し

 右側は細い道。地図で確認すると、先は行き止まりになっているようです。
 巨福呂坂切通しができたことにより、山ノ内に建長寺や円覚寺が建てられました。
 巨福呂坂という名称は、建長寺の山号巨福山からつけられたといわれていますが、鎌倉時代の文献には記載されていません。室町時代初期の『太平記』の鎌倉合戦事の記事に初めて記載されています。
 『吾妻鏡』の1235年(嘉禎元年)、四境祭の記事に小袋、『一遍聖絵』の1282年(弘安5年)、一遍らが通ろうとした「こふくろさか」が、巨福呂坂切通しかどうか定かではありません。
 切通しは7つあり、極楽寺坂切通し、大仏切通し、化粧坂切通し、亀ヶ谷切通し、巨福呂坂切通し、朝夷奈切通し、名越切通しがあります。

写真撮影:2007年02月28日

巨福呂坂切通し

JR鎌倉駅下車 徒歩10分
巨福呂坂切通し
巨福呂坂切通し

 右側は細い道の傍らには、庚申塔や道祖神の石造が建っていました。右側が巨福呂坂切通しになるのかな?
 現在は小袋坂と書きますが、昔は巨福呂坂、巨福路坂、巨福札坂などと書かれていました。
 現在の小袋坂は、1883年(明治16年)に切り開かれましたが、まだ急坂でした。1923年(大正12年)、関東大震災のとき、切通しの両側の土砂が崩れたので、掘り下げてその土を下ろし、先の方に土盛をして緩やかな坂にしました。この坂を下ると昔は巨福呂谷と呼ばれていた谷戸に出て、建長寺の前に出ます。
三浦半島観光地図:1923年・関東大震災

写真撮影:2007年02月28日
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