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日本でただひとつ残る鎌倉時代の港湾遺跡で、国の史跡に指定されています。和賀江島築港は、関東地方における大規模な海洋港湾工事の先駆けであると位置づけることができます。鎌倉時代の1232年(貞永元年)、築造されてから現代に至るまで、幾度となく台風によって破壊され、そのたびに修復を繰り返してきました。和賀江島の石積み防波堤の海洋港湾技術は、江戸時代の台場建設、明治時代の海堡建設に受け継がれています。真鶴の石材は、和賀江島、品川台場、東京湾海堡に共通して使われています。
和賀江島は、往阿弥陀仏(おうあみだぶつ)という僧侶が鎌倉幕府に建設を請願し、築かれました。その後、和賀江島は盛衰を繰り返しましたが、和賀江島が港湾として第二の盛期を迎えたのは江戸時代の明和年間(1764年〜1772年)です。
1923年(大正12年)、関東大震災によって和賀江島は約1m隆起しましたが、それ以前は、和賀江島の泊地は平均海水面より約4mの水深があったと推定されます。江戸時代、鎌倉沖を走っていた江戸〜大阪を結ぶ菱垣廻船(ひがきかいせん)・樽廻船(たるかいせん)の航路には千石船(せんごくぶね)と呼ばれる大型の弁財船(べんざいせん)が就航していました。また、鎌倉八幡宮の修復の際には、材木を積んだ御用船が和賀江島に入港しています。千石船の喫水は約2.6mなので、和賀江島に入港可能で、当時は大型の廻船が入港し大いに賑わっていたと想像できます。
1764年(明和元年)9月、材木座村・坂之下村・小坪村の間で、和賀江島の利用をめぐって争いが起こり、裁判にまでなりました。坂之下村には、専門の廻船業者もいました。和賀江島がある飯島には、漁師だけでなく、港湾荷役に従事する人や貨物輸送に従事する人々の家が立ち並んでいました。
三浦半島観光地図:鎌倉市雪ノ下・鶴岡八幡宮 |
写真撮影:----年--月--日 |
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昔は港らしい形をしていたんですね。これが鎌倉時代に造られたというのが、信じられないですね。石垣を運ぶ技術や積む技術、すでにあったんですね。
江戸時代の明和年間(1764年〜1772年)の和賀江島の復元想像図です。当時の絵図や文書を参考にして作成されました。 |
写真撮影:----年--月--日 |
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