芦名から佐島にかけての台地には、縄文時代早期の遺跡が発掘されています。
三浦大介義明の弟、芦名三郎為清の居城跡があり、城山と呼ばれ、宝物伝説が残されています。会津に住む芦名氏の末裔が古地図を持って探しにきたり、地元の人たちも埋蔵金探しをしたことがあります。
『新編相模』にある「芦名郷」は、芦名、秋谷、佐島を合わせたエリアになります。
江戸時代、佐島村を分村しています。
室町時代、相模国三浦郡になります。
永享6年6月5日沙弥聖喜所領所職譲状写に「一、相模国三浦郡葦名郷・・・是等者、雖為不知行、為後日之訴訟」とあり、三浦一族の芦名盛政は陸奥国会津(現在の福島県)に入部後も、本貫地の当地を含む数ヶ所の不知行所領を、後日の訴訟に供えるため手継証文を添えて息子の盛久に譲っています。
『北国紀行』によれば、文明19年に尭恵法印が「三浦が崎」を訪れ「此浦のあしなという所の磯の上に平常和侍り」と記しています。
天文19年糠屋清承願文写に「奉■像建立大慈大悲観世音菩薩、相州三浦郡蘆名郷佐嶋村観妙寺之御本尊也」とあり、佐嶋村は芦名郷内に含まれていたことが分かります。
浄楽寺の弘治3年3月20日付の木造阿弥陀如来坐像銘札に、「相州三浦郡群芦名郷金剛山常楽禅寺本尊之内札之事」とあり、同銘札の裏下部には弘治3年4月25日の日付で「加地かハ竜へもん 御ミてのはく あしなのむら」とあります。
『役帳』には、小田原北条氏の諸足軽衆荒川氏の所領役高として「四拾六貫六百七十五文 同(三浦)蘆名」とあります。
永禄6年7月11日北条氏康判物案写には、「弐拾貫文 諸(蘆)名郷、戊(戌) 十一月為御褒美被下、以上、梶原本知行之辻」とあり、永禄5年11月に水軍の梶原吉左衛門尉に宛行われています。
天正18年卯月日の豊臣秀吉禁制が「相模国三浦郡蘆名郷浄楽寺」にあてて出されており、秀吉は小田原攻めに際して当地を掌握しようとしていたことがわかります。
天正19年の朱印状には、「十二天 相模国三浦郡 蘆名郷之内 弐石」、「浄楽寺 相模国三浦郡 蘆名郷之内 参石」とあり、それぞれ寺社領の寄進を受けています。
寛永10年は幕府領、元禄10年は旗本稲垣氏知行、幕末は幕府領です。
村高は、『元禄郷帳』、『天保郷帳』ともに288石余。『旧高旧領』では360石余、うち十二天社領が2石、浄楽寺領が1石余です。
『三浦古尋禄』では、家数127軒。漁村をなし、小さな入り江を船だまりとして、沿岸漁業が行われていました。
『新編相模』では、江戸から16里、海上では21里余を要し、家数132軒、東西8町余・南北30町余、鎮守は鎌倉期以来の古社十二天社、寺院には浄土宗浄楽寺・南光院、日蓮宗安穏寺があります。淡島神社は女人救済の神として、腰の病・良縁・安産を願う多くの参詣者で賑わいました。下平作村境にそびえる大楠山は、かつて頂上にクスノキがあったことから名付けられたと言われています。地内を三浦往還が通ります。
明治22年、中西浦村の大字となります。 明治44年には西浦村、昭和10年には大楠町、昭和18年には横須賀市の大字となります。
明治24年、戸数135、男496人、女455人でした。 |