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走水低砲台 |
2016年(平成28年)から横須賀市が指定するガイド同伴で見学が可能になりました。ガイド同伴なら猿島砲台跡などでは入ることのできない兵舎内部も見学することができます。
猿島公園専門ガイド協会なら5人まで3000円、5名以上は1人あたり600円となります。NPO法人よこすかシティガイド協会なら1人あたり300円、2人以上で申し込み可能となっています。
走水周辺は東京湾でもっとも幅が狭くなる場所になり、幕末の頃から台場が築かれるなどして、東京湾防衛のための重要な場所となっていました。
明治政府も、走水エリアに砲台建設を計画し、観音崎、猿島に続いて走水低砲台も建設に着手しました。1885年(明治18年)に着工し、翌年の1886年(明治19年)に竣工しました。
27cm加農砲を4門が一直線上に並ぶように据え付けられていました。明治26年には加式27cm加農砲に交換され、明治37年には斯加式27cm加農砲になりました。
名称も何度か変更され、完成時は走水砲台と呼ばれていましたが、その後に走水低砲台となり、最終的には走水第一砲台となりました。現在では走水低砲台の名称が通りが良いようです。
日清戦争・日露戦争でも実戦で使われることなく戦争は終結。関東大震災で被災したのちに復旧もしましたが、1934年(昭和9年)に陸軍施設から除籍されました。横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として南門砲台の9cm速射加農砲が移設され、太平洋戦争終結まで稼働可能な状態になっていました。
弾薬庫と兵舎は2016年(平成28年)に見学可能となる前はコンクリートブロックで入り口が閉鎖されていたため、内部の保存状態は良好です。
●弾薬庫
弾薬庫の入り口は兵舎を中央にして左右に2ヶ所あります。
入り口を入ると、左右に細長い前室通路(廊下)があり、その奥が2部屋に分かれています。それぞれがひとつの砲座を担当していました。
砲台ごとに専用の弾薬収納室があり、前室通路の奥に砲弾を上部の砲台に上げるための揚弾井があります。揚弾井の上部には滑車が設置されています。
●兵舎(掩蔽部)
砲台中央部の横墻(おうしょう、防護用の壁のこと)地下に造られた兵士の居住室です。
明治時代は照明が貧弱だったため、出入り口の両脇に採光用の窓が2つあります。
内部はシンプルな長方形の部屋となっており、天井はヴォールト構造、壁面はレンガに漆喰が塗られてあります。
●砲座
標高約20mの丘上にあります。ここから北東方面に向けて27cm加農砲が設置されていました。
胸墻(きょうしょう)に囲まれた砲座間には高い横墻(おうしょう)があり、その地下には弾薬庫と兵舎があります。
●観測所
砲台の両端の横墻上に観測所があります。
右翼側にもあったはずですが、現在は確認できていません。
レンガ造でT字型をした壕で、敵艦隊との距離や方角を観測していました。
●小隊長掩壕(えんごう)
砲座間にある高い横墻の上部に高塁道へ上る石段があり、高塁道中央部に小隊長掩壕があります。
大人一人が入れる広さで、肩くらいまでの高さがあります。
小隊長掩壕は2つの砲座間にひとつずつ、合計2ヶ所造られています。
バス停走水上町下車 徒歩3分 |
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走水低砲台の写真 |
いつもだと極秘裏に侵入して写真を撮影していますが・・・んんっ?
いつもだとフェンスの隙間にカメラのレンズをグリグリと差し込んで撮影してますが、今回は公式訪問です!!
ガイドさんに連れて行ってもらいました(^^)
雑木林となっており木がうっそうと茂っていましたが、戦後になってから生えてきたものなのか、砲台建設時から生えていたものなのか気になります。落葉樹による落ち葉がたくさんありました。
ここがあの名高き二十七糎加農砲の台座跡です。わかりやすく書くと27cmカノン砲です。
砲台の中心部に金属製のピンが円形状に並んでいました。
壁面に連なっている凹部は、砲弾を並べていた場所です。
直径が27cmある砲弾なので、立てて並べていたのかなー。砲弾の形はドングリみたいな形だったんだと思います。
全部で4門あった27cm加農砲、こちらにも設置されていました。
階段は見学者のために最近になって設置されたものです。
肥溜めのような場所ですが、ここは観測所です。
安全のために地下になっているのだと思いますが、ここから敵艦を視認したり弾着確認を行っていたようです。
刻印のあるレンガを発見しました。
桜のマークが入ったレンガは、囚人煉瓦というらしいです。
刑務所に収監されている囚人の手によって製造されたレンガらしいです。
中古レンガ市場でも刻印入りのものは、ちょっと値段が高めになっています。
ここが小隊長掩壕です。
小隊長がこの中に入って、砲手に指示を出す場所です。
きっと、「弾幕薄いぞ、なにやってんの!!」って叫んでいたんだと思います、間違いありません。
27cm加農砲に比べると、かなり小さな砲座跡。
8cm高角砲が据え付けられていたらしいです。
8cm高角砲は1916年(大正5年)2月4日に制式化され、最大射程は1万800mあります。昭和時代になると他の対空兵装に変わっていき、太平洋戦争時には旧式砲となっていました。
ここが兵舎です。
立ち入り禁止になっていたころは、入り口も窓もコンクリートブロックで閉鎖されていましたが、現在は金網になっており施錠されています。
入り口や窓の上部のアーチの装飾がいいですね(^^)。職人さんによる粋な計らいでしょうか、それとも設計通りなのかな?
保存状態がいいですねー。
フランス積みとなっていました。煉瓦の上から漆喰が塗られていたのは、湿度を調節する機能を期待したり、見た目を良くするなど、居住環境を良くするためでしょうか。
レンガや漆喰からフワフワっとした綿状のものが生えていたんですが、なんだったんだろう。カビとか菌類かな?それとも煉瓦から染み出てきたミネラル分の結晶?
ここが弾薬庫です。
上部の横墻の左右に揚弾井があります。
ここの入り口も以前はコンクリートブロックで封鎖されていました。入り口が封鎖されていたため、内部は荒れずに済んだのだと思います。
入り口を入るとすぐ、左右に伸びる通路があります。
ここもフランス積みのレンガ造でした。そしてレンガの上から漆喰が塗られていました。
壁面の凹部には何かが置かれていたのかな、炭があったのはのちに誰かがたき火でもした跡なのかも。実際に使っていたとき、弾薬庫で火を使うなんて考えられないですからねー。
壁面上部の丸穴は伝声管かな?それとも通気口でしょうか。
弾薬庫でも兵舎でも、当時のものは落ちていないか血眼になって探したんですが、残念ながら見つかりませんでした。工具や食器などは土地ていても不思議じゃないと思うんだけど。でも、30年くらい前のビンとか缶は落ちていました。
ここが揚弾井です。長さ5mくらいあるのかなー。
ここから上部にある砲座に砲弾を上げていました。滑車を使っていたみたいです。
もし砲弾を途中で落としてしまったりしたら、上官からきついお叱りを受けるんだろうなぁー。暴発してしまって大事故になっちゃうかな?
とても眺望の良い場所だったので、砲台の設置に適した場所だったんだなということが自分の目でも確認できました。
江戸時代、川越藩が台場を築いているので、その時から砲台建設に向いている場所だと考えたのかも。
ただ、地盤が脆弱そうなのが気になりました。砂と砂利が堆積した土質だったので、工事は簡単でも、強度を保つのが難しそうです。関東大震災で被災してしまったのも、脆弱な地盤が原因だったのかもしれません。 |
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