そらいろネット > 三浦半島観光地図 > 横須賀市 > 本町 > 延命地蔵尊
どぶ板通り商店街の中にある延命地蔵尊。前を通りかかる人はたくさんいますが、足を止めて地蔵堂の中に入る人は少ないのではないでしょうか。自分自身いつも前を通っていましたが、今回初めて訪れました。 雨の日も、風の日も、昼も夜も、迷いの辻を行き通う人々を育み、見守っていてくれるのが延命地蔵尊です。 1841年(天保12年)に発行された『新編相模国風土起稿』によれば、「良長院の末寺西往寺延命山と号す、本尊地蔵、これも宝永中(1704年〜1710年)門扇の建てるところなり」と記されています。 1908年(明治41年)に発行された『三浦盛昌記』によれば、「汐留町に在り。朝夕、線香の煙絶えずここにも茶屋町の女どもが朝に夕に参詣している」と記されています。 三浦半島観光地図:横須賀市緑ヶ丘・良長院
このどぶ板通り商店街に延命地蔵が祭られたのは、1923年(大正12年)の関東大震災の後です。きっと、この鉄の扉の向こう側に本物の延命地蔵尊が祭られていると思います。普段は見ることができないのかもしれません。 元々、現在の汐入小学校付近にあり、洞ノ口地蔵(どうのくちじぞう)と呼ばれていました。このあたり一帯は海に突き出した険しい地形で、交通路といえばわずかに山すそをぬって造られた細い道だけがだったようです。そのため、この付近に下町と結ぶ素掘りのトンネルが造られました。 しかし、トンネルが祖末で不完全なものだったことから、出水や地震などによってたびたび落盤事故を起こし、通行人からも多くの怪我人を出したといいます。 そこで周辺の有志の発案によってトンネルの入り口に地蔵を祭り、通行の安全祈念をすることになりました。トンネルのそばに祭られたことから「洞ノ口地蔵」と呼ばれていました。明治の中頃までは、この付近を洞ノ口あるいは堂ノ口と呼ばれていました。
横須賀市不入斗町に住んでいた直木賞作家・瑞穂驚(みずほみはる)が、この延命地蔵尊をこよなく愛し
という句を詠まれました。 延命地蔵尊は霊験あらたかであり、深い慈悲によって「願いがかなった」、「悩みから救われた」、「亡き人と語ることができた」などの経験を持つ人がいます。 誰も訪れる人がいないのではないかという雰囲気がありますが、意外と訪れる人が多いようです。常にローソクに灯がともり、線香の煙が立ち上っていました。
地蔵堂の左手前には、45名の名前が記された関東大震災供養等、地元若者の集い「汐留睦会」の奉納額があります。関東大震災の傷跡は、三浦半島の各所で見ることができます。とてもたくさんの慰霊碑が立てられています。 奉納額は、大震災殉難者霊の慰霊碑の後ろ側にあるもののようです。 とても小さな地蔵堂ですが、たくさんのお地蔵様が祭られています。数えませんでしたが、100体近くの石造のお地蔵様が祭られているのではないでしょうか。 たくさんのお地蔵様に見られているようで、写真を撮るのが悪いような気がしちゃって・・・。やはり礼儀として、写真を撮る前にはお参りをして「写真を撮らせてください」と頭を下げてから、写真を撮るようにしています。
地蔵堂の右手前には、戦前に近くの火災で亡くなった母子3人の像、それに多くの水子地蔵尊などが祭られています。 真剣に説明看板を読み、写真を撮っている姿が気になったのでしょうか。見知らぬおばさんに声を掛けられました。もっ、もちろん、職務質問ではありませんよ。 その人の話によると、いつも買い物の帰りにはこの延命地蔵尊を訪れるそうです。ここにはイスも用意されているので、一休みしてから帰宅するとのこと。ここで休んでいると、とても心が落ち着くと言っていました。