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記念艦三笠 |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦です。1902年に、日本海軍艦として就役しました。艦命は、奈良県の三笠山にちなんで「三笠」と命名されました。同型艦には、敷島、初瀬、朝日などがあります。
日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍拡を薦めていました。その当時、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻からなる「六・六艦隊」計画を目指していました。その一環として三笠が建造されました。
圧倒的な火力の充実を図ると共に、装甲板にクルップ鋼を使用して当時の世界最高水準の防御力を実現しました。 |
写真撮影:----年--月--日 |
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記念艦三笠 |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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1903年12月28日、連合艦隊旗艦となりました。
1904年年2月6日、日露戦争に加わります。
1904年8月10日、黄海海戦に参加しました。12月28日、呉に修理のため入港。
1905年2月14日、呉を出航し、対馬海峡で訓練を行います。
そして、5月27日、28日、日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦することになります。この海戦では、三笠は113名の死傷者を出しました。
三浦半島の歴史:1904年・日露戦争
三浦半島の歴史:1905年・日本海海戦
三浦半島の歴史:人物事典・東郷平八郎 |
写真撮影:----年--月--日 |
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記念艦三笠 |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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1914年8月23日、日本が第一次世界大戦に参戦すると、三笠は日本海などで警備活動にあたりました。
1918年〜1921年、大戦中に誕生した社会主義国ソ連を東から牽制するシベリア出兵支援に参加します。
1925年1月、記念艦として横須賀に保存することが閣議決定されました。
6月18日、保存のための工事が開始され、11月10に工事は完了します。
三浦半島の歴史:1914年第一次世界大戦 |
写真撮影:----年--月--日 |
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記念艦三笠 |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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第二次世界大戦の敗戦後、日本が連合国軍に占領されていた時期、ソ連から三笠を海中に投棄せよとの要望で撤去されそうになったりました。しかし、アメリカ軍人の為の娯楽施設「キャバレー・トーゴー」が艦上に設置されました。
兵装や上部構造物は全て撤去され、取り外せそうな金属類はほとんど持ち去られ、甲板までもがはがされてしまいました。
1959年(昭和34年)〜1961年(昭和36年)に復元工事が行われました。1961年(昭和36年)5月27日、再び記念艦三笠が誕生しました。
三浦半島の歴史:1939年第二次世界大戦 |
写真撮影:----年--月--日 |
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さかみ |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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「さかみ」と読まないで、「みかさ」と読んで(^^ゞ
性能表は以下の通りです。
戦艦三笠 |
排水量 |
15,140t |
全長 |
131.7m |
全幅 |
23.2m |
機関 |
15,000馬力 |
速力 |
18ノット |
乗員 |
860名 |
装備 |
主砲 30.5センチ40口径連装砲 2基4門
副砲 15.2センチ40口径単装砲 14門
対水雷艇砲 7.6センチ40口径単装砲 20門
47ミリ単装砲 16門
45センチ魚雷発射管 4門 |
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写真撮影:----年--月--日 |
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記念艦三笠 |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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かつての記念艦三笠の姿。すでに現役を引退し、記念艦として改装されています。軍縮条約により廃艦後は解体される予定でしたが、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められました。
舳先は皇居に向けられ、船体の外周部に大量の砂が投入され、下甲板にはコンクリートが船内に注入されました。こうして三笠は海に浮かんでいるのではなく、海底に固定されるようになりました。
第二次世界大戦後の物資不足により、主砲を含む兵装上部構造物、取り外せそうな金属類は機関部に至るまで、ガス切断で全て盗まれてしまいました。そのため、現在の状態と外見が少し異なりますね。特に主砲の形は大きく異なっているのがわかります。
太平洋戦争敗戦後、アメリカ軍人のための娯楽施設「キャバレー・トーゴー」が艦上に設置され、後部主砲塔には水族館まで設置されてしまいました。 |
写真撮影:----年--月--日 |
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日清戦争の戦利品です。
初期のころの連発銃で、十連峨機砲と呼ばれていました。
現代でいうところの、ガトリング砲に分類される銃器だと思います。回転式多砲身機関銃です。
艦船では飛行するミサイルや航空機を破壊するために利用されるファランクスとかいう武器だと思います。アメリカ軍のイラク侵攻で活躍したA-10サンダーボルトの機種に搭載されているのも、悪名高き劣化ウラン弾を用いたガトリング砲です。
三浦半島の歴史:1894年日清戦争 |
写真撮影:----年--月--日 |
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主砲砲身 |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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当時は少佐だった伏見宮博恭王殿下が砲台長として奮戦の後部主砲の右砲身の一部です。
1904年(明治37年)8月10日、黄海海戦で被弾し、破損脱落したものです。12月28日、呉に入港し修理をしています。その後、対馬海峡で訓練を行い、1905年(明治37年)5月27日、28日に日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦しました。
三笠の主砲は、40口径30センチ連装砲を2基4門装備していたので、そのうちのひとつ。
良く見てみると、砲身内にライフリングがされていますね。命中精度を上げるための加工なのでしょうか。ちなみに、黄海海戦は日本側が勝利しています。
三浦半島の歴史:1905年・日本海海戦 |
写真撮影:----年--月--日 |
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ロシアの主砲砲弾 |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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ロシアの主砲砲弾。
ロシア艦のどの艦の砲弾なのかわかりません。未使用の砲弾だと思うので、拿捕した軍艦の砲弾なのかな? |
写真撮影:----年--月--日 |
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鎮遠の砲弾 |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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主砲は、30.5センチ20口径連装砲を2基4門、装備していました。おそらくその主砲の砲弾だと思います。
鎮遠は日本海軍の艦ではなく、清国海軍がドイツのフルカン造船所に発注して建造した甲鉄砲塔艦です。1885年、清国海軍に就役しました。建造当時は東洋一の堅艦と呼ばれていました。
1896年、日清戦争で日本海軍に拿捕されて、戦後に日本海軍に編入されました。
その後、日露戦争では日本海軍艦として黄海海戦や、日本海海戦で活躍しています。
三浦半島の歴史:1894年・日清戦争 |
写真撮影:----年--月--日 |
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1848年製30ポンドカノン砲 |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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1854年(安政元年)11月4日、伊豆下田港において大震災のために座礁し破損した、ロシア艦隊軍艦ディアナ号の大砲と推定されています。
アメリカ海軍横須賀基地に保存されていたのを、基地司令官ハウエル海軍大佐から寄贈されたものです。
この大砲の姉妹と思われる大砲が、靖国神社の遊就館に保存されています。
30ポンドカノン砲 |
口径 |
16.6cm |
砲身長 |
2.57m |
重量 |
2.7t |
三浦半島の歴史:1811年・ディアナ号事件
三浦半島の歴史:東京都千代田区九段北・靖国神社 |
写真撮影:----年--月--日 |
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ロシア巡洋艦バヤーン15cm砲の盾 |
京急横須賀中央駅下車 徒歩13分
三笠公園内 |
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中央の破孔は弾痕です。正面の厚さは7.5cmあります。
もし、巡洋艦パーヤンだったら、ちょっと笑っちゃいますね(^^ゞ。さらにバードマンとか、ブービーとか・・・ |
写真撮影:----年--月--日 |
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